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食卓の棋士
2000.07.30

 行儀の悪いことなのかもしれないが、私は食事をしながら新聞を読むことが多い。新聞に何かしらのとりえがあるとしたら、食事をしながら読むのに適しているということだろう。ページを頻繁にめくる必要がなく、手をふさがず、汚してもかまわない。普通の本ではこうはいかない。

 そんな私が好んで見るのが将棋欄である。なにしろ私ははじめて将棋の駒を握ってはや幾年月。私にむかってくる将棋指したちにばったばったとなぎ倒されて、あれこそ自然流だ、あれほど何も考えずに駒を動かせるやつはそうそういない、と友人たちからうらやまれるほどの腕前なのである。であるからして、毎日将棋欄を眺めては、「うーむ。今日のコロッケはちょっと固いな」などと考えている毎日なのだ。

 将棋欄のどこが良いのかといえば、それはページをめくる必要がないということにつきる。私は将棋欄をじっと眺め、「3三銀」とか「4五歩」とか書かれているのを読みながら頭の中で盤上をシミュレートするのであるが、なにしろ三手以上になると頭の中がいっぱいになってしまって分からなくなる。再び初手に戻って、「えーと。まずはあれをああ動かして。それからこれをそう動かして」などと考え直さなければならないのである。普通ひとつの将棋欄には十手から二十手ぐらいが載っているのであるが、その動きを追っているだけで食事の時間などあっというまに終わってしまう。三手ぐらいのっていれば十分なぐらいだ。ページを一枚もめくることなく、一点を見つめているだけでよいのだから、楽なことこのうえない。

 他にも食事中に将棋欄を読むことの利点は多い。たとえば、盤上に二つの同種の駒が近くに並んでいたりすると、将棋欄ではどちらの駒を動かしたかを示すために「3四金右」などというぐあいに左右を記すことがある。そういうとき、通常ならば「右の金を動かしたんだな……右ってどっちだっけな……お箸を持つほうの手だよな……ああ、こっちのほうか」という具合に長い思考過程を経なければならないのであるが、食事中ならそんな心配をする必要もない。すでにお箸をつかんでいるのだから、そっちの方が右だとすぐに分かるのである。このように食事中の利点をいかしてすぐに左右を判別できるのは、私の鋭い頭脳のおかげだろう。

 かように素晴らしい将棋欄なのであるが、むろんいくつかの欠点がないわけではない。私の頭脳がいつまでたっても右手に持つのはフォークだったかナイフだったかを覚えられないように、どんなに完璧に近いものにも欠点はあるのである。将棋欄の欠点とは、将棋のことしか載っていないことだ。せっかく新聞が毎朝配られているというのに、私が読むのは将棋欄だけである。これはもったいない。どうせなら、将棋欄にニュースやスポーツの結果なども載せればよいのではないかと思う。




不浄の人
2000.07.25

 毎月25日のことを我が家では「にこにこデー」と呼んでいた。25(にこ)日であり、みんながにこにこする日だから「にこにこデー」だ。身内のことながら、なかなかセンスがよい。なぜみんながにこにこするのかといえば、その日が父上の給料日だったからだ。

 私も毎月25日にこづかいをもらっていた。小学一年生のときは100円だった。二年生のときは200円だった。六年生の時には600円をもらっていた。中学校に入ってからはどうだったかよく覚えていないけれど、少なくとも小学生のときは私にとっても「にこにこデー」だったわけだ。

 そのころ私は「こづかい帳」というものをつけていた。毎月、いったいどんなことにお金をつかったのか記す帳面だ。家計簿の簡易版だと思ってもらえればよい。実は、そのこづかい帳というものを今でも残している。一年に一回ぐらいそれをとりだして、ニヤニヤしながら眺めるのはなかなか楽しいことだと思っている。

 こづかい帳は私が一年生のときの誕生日から始まっている。あまり覚えていないが、おそらくはきりがいいので父上か母上がこづかい帳を買い与えたのではないかと思う。扱われている金額はたわいもないものだが、なかなか几帳面に記されているので、いろいろなことが分かる。当時の私にとってどれぐらいのお金が大金であったのかとか、初めて映画に行ったのはいつかとか、そういう他人が見てもどうしようもない情報がここにはつまっている。私の行動パターンやマイブームの変遷なども分かるので、私にとっては面白い。たとえば、二年生の時のあるページから抜粋してみよう。


日付 明細 入金 出金 残高
10/12 ひろった 100 620
10/14 ひろった 10 630
10/15 おかし 160 470
10/15 ひろった 50 520
10/21 文ぼうぐ 80 440
10/21 ひろった 100 540
10/23 おちてた 10 550


 拾いすぎだ。

 つかったお金よりも拾ったお金のほうが多い。「おちてた」なんて書いてごまかそうとしたって無駄だ。おそらく、このころの私は落ちているお金を拾うのが好きだったのだろう。それにしても、こんなに情けない行為をなぜわざわざ記録に残そうとするのか。誰かに見られたらどうするんだ。

 こんなページもある。


日付 明細 入金 出金 残高
2/11 チョコボール 55 2254
2/12 チョコボール 55 2199
2/13 チョコボール 55 2144
2/15 チョコボール 55 2089
2/16 チョコボール 55 2034
2/17 チョコボール 55 1979
2/18 チョコボール 55 1924


 買いすぎだ。

 そんなにチョコボールばっかり買うことないじゃないか。しかも、律儀に一日一個ずつ。このころは「おもちゃの缶詰」を当てることに夢中になっていた。一年以上はこんな状態が続いていたのではないかと思う。おかげで私の部屋にはおもちゃの缶詰が四つある。

 というわけで、私にとって懐かしくも面白いのがこのこづかい帳なのである。さすがに金の出入りが激しくなって自分でも把握しきれなくなってくるとこづかい帳は終わっているが、それでも中学生になる直前まで続いている。まったく長い間こんなことをよく続けたもんだと思う。

 ちなみに最後はこんな記述で終わっている。


日付 明細 入金 出金 残高
2/27 ひろった 10 17620


 心の底から情けない。




認識論
2000.07.13

 音声認識機能というものをご存知だろうか。

 今さら、という気もするのだが、私はこの音声認識機能というものを初めて体験したのである。そして、世の科学はここまで発達していたのか、と深い感動を味わってしまったのである。まさに、来年は二十一世紀なのだ。

 音声認識機能というのは、私が音声を発するとコンピュータがそれを認識して、文章に直してくれるという便利な機能である。こうやって説明を書いただけでも、すごい機能だなと思う。最近のコンピュータには、なにげなく標準でこの機能がついていたりしてあなどれない。

 しかも、この音声認識機能というやつはなかなか優秀なやつなので、発音不明瞭な私の言ったことでも、きちんと意味のある言葉として解釈しようとしてくれる。あるいは、まったく意味のない言葉でも、意味のあるように解釈してくれる。

 たとえば、私が「ディスイズアペン」と発声したとする。これは、英語圏の人にとってはそれなりに意味のある言葉かもしれないが、日本語しか認識できない機械にとってはほとんど意味がない。にもかかわらず、この機械はそこから何らかの意味を読み取ろうとするのである。

 「ディスイズアペン」と発音してみると、コンピュータは「スイス発見」と打ち出した。コンピュータは、彼にとって何の意味もないであろう言葉から、見事に意味を読み取ったのだ。そういわれてみれば、「ディスイズアペン」と「スイスハッケン」はどこか似ている。これは、すごい。まさに、目からうろこがぼろぼろ落ちるところを想像して気持ち悪くなってしまうぐらいすごい。「ディスイズアペン」と「スイスハッケン」。見事ではないか。

 もう一度、「ディスイズアペン」と発音してみた。今度は「犠牲者ベン」と打ち出した。うまいこと解釈するものだ。とうてい、私にはできそうもない芸当だ。突然知らない人から訳のわからない言葉を投げかけられて、それで自分が解釈できる精一杯の言葉に直すなんて、よほどできた人間にしかできないことだ。「ディスイズアペン」と「ギセイシャベン」。並べてみると似てなくもない。なかなか、優秀な判断力である。ところでベンって誰だろう。

 ついでに、もっと意味のない発音をしてみた。クシャミである。クシャミの音は、誰にとっても意味を読み取ることができない。ただ、クシャミをしたということが分かるだけである。いったい、この音にコンピュータはどのような意味を読み取るだろうか。

 都合よくクシャミがでてくれるわけではないので、鼻にコヨリを突っ込んでくしゃみを誘発させる。コンピュータの前で鼻からコヨリをぶらさげている姿は、あまり人に見られたくない。フェッ、フェッ、としだいにクシャミ欲が高まり、ついに爆発した。

「記者団」

そうコンピュータは打ち出した。そうか。私のくしゃみの音は記者団だったのか。すばらしい認識力だ。人間ならせいぜい「ハクション」と書くのが精一杯な音を、「記者団」という熟語で見事にあらわしたのである。常人にできることではない。そう感心していたら、もう一発くしゃみがでた。

「資産」

今度はそう打ち出した。なるほど、私のくしゃみは資産だったのか。そういわれれば、そんな気もする。「シサン!」と発音してみると、なんとなく自分がくしゃみをしているような気分になれるはずだ。このように、音声認識機能とは非常に意味が読み取りにくい言葉からも意味を読み取ってくれるという、すばらしく高級な機能なのである。

 これほどすごい機能があって、それで遊ばない手はない。私はさまざまな言葉を発声し、それを文字に変換させては喜んだ。その全てをここに紹介することは私の馬鹿さ加減をひけらかすようなのでやめておくが、とにかく面白い。なんというか、ワープロの誤変換の楽しみの一段上をいく楽しみ、という感じである。

 ところで、この音声認識機能は、たいていはあたりさわりのない意味を読み取って変換してくれるのだが、たまに怖い変換をしてしまうことがある。私が「こんにちは赤ちゃん♪」とニコニコ顔で歌っていると、コンピュータはこんなふうに打ち出した。

「高温に血が発火ちゃん」




ハコ
2000.06.23

 箱に入りたがるのは、何も特別なことではない。多くの人は、箱があれば入りたくなる。冷蔵庫や洗濯機といった大きな家電を買うと、大きな箱が届く。それを見たとき、多くの人は、その中身よりも「箱」に対して嬉しさを覚える。大急ぎで箱を壊さないように家電を出し、大急ぎで自分が入りこむ。そして、ゆっくりと満足のため息をつく。

 ところが、最近では業者が箱を持ちかえってしまうことが多い。そんなものを置いておいても邪魔だろうという配慮なのだろうが、確かにそれは正しいのだろうが、それでもちょっと気が利かないのではないかと思う。確かに、大きな箱をずっと押入れの片隅に押しこめておくのは邪魔である。だけど、我々に箱を触らせようともしないで持ちかえってしまうのは、意地が悪いとしかいいようがない。何も、ずっと箱を確保したいわけではない。ほんの、二、三日でいいのである。その間に、十分に箱は堪能できる。それぐらいの日にちが経ってから、あらためて箱だけを取りに来てくれればよいのである。

 「箱男」という言葉がある。辞書を引くと、

はこおとこ【箱男】
(1)安部公房の小説。1977年に新潮社より刊行。
(2)箱に入りたがる男。また、隠者。

と載っている。それに対して、「箱女」という言葉は載っていない。とすると、箱に入りがるのは男性が多いのかもしれない。女性にもかろうじて「箱入り娘」という言葉があるが、まるで意味が違う。

はこいりむすめ【箱入り娘】
たいせつに育てて、めったに外へ出さない娘。

 普通、箱入り娘は箱に入りたがらない。父が「うちの娘は箱入り娘で…」と言ったときは、「大切に育てましたよ」とか「少々、世間知らずです」ということを伝えたいのであって、「いつも箱に入っています」ということを伝えたいわけではない。だとしたら、我々は「箱に入りたがる女」のことを、いったいどのように言えばよいのだろうか。

 男性であるならば、自分が箱に入りたがることを「私は箱男でして…」という具合に、ちょっと照れ笑いを浮かべながら言えばよい。しかし、女性には「箱男」にあたる言葉がない。だからといって、「私、箱に入りたくってしょうがないんです」などと言うと、箱男の持つ微妙なニュアンスが伝わらない。言うなれば、箱に入るという秘密めいた楽しみが、あまりにおおっぴらに表現されているために、まるで無神経な感じがするのである。

 考えてみれば、箱に入りたがるかどうかということは、その人の性格を知る上で非常に重要なことである。箱に入りたがる男性ならば、箱に入りたがる女性と相性がよいだろう。その逆の場合もある。いずれにせよ、自分がつきあう相手が箱に入りたがるかどうかということは、ぜひ知りたい情報のひとつである。

 そこで、ぜひそれを知りたいという人に、ひとつアドバイスをしておこう。もし、彼女が箱に入りたがるかどうかを知りたければ、夜中にそっと彼女の家の前に行き、こっそりと適当な大きさの箱を置いてくることだ。ちょうど、ひとりの人間が入れるぐらいの大きさのものがよい。そして、箱の中にテープレコーダーを仕込んでおく。後日、回収したテープから「うふふ……うふふふ……」という嬉しげな笑い声が聞こえてきたらならば、彼女は間違いなく箱に入ることを楽しむたちだと思ってよい。

 もちろん、そんな相手とはつきあわないことだ。




若気の痛み
2000.06.20

 どうも自転車というものは、人のチャレンジャー精神を無駄にあおるものであるらしい。自転車に乗れるようになった子供がまず憧れるのは「手放し運転」である。両手をハンドルから放し、体でバランスをとりながら走る。そんなことをして、いったい何の特になるのか分らない。ハンドルを放しているのだから、曲がることもブレーキをかけることもできない。自らケガをする機会をふやしているようなものであり、そんなことをするのはよほどバカな人間ではないだろうか。先日も、手放し運転をしていたら壁に激突してしまい、ますますその思いを強くした。

 大人でさえこのありさまなのだから、子供はもっとひどい目に合う。昔々、あるところにAという少年がいた。少年Aは、自転車で走りながら自転車の鍵をロックしたらどうなるだろうと考えた(なぜそんなことをする必要があるのかは考えなかった)。今の自転車は、後輪を輪っかになった鍵でロックするものがほとんどだが、少し前までは前輪に棒状の鍵をさしこんでロックするものが主流だった。あれは、走りながらでも蹴飛ばしてロックすることができる。少年Aはそれに挑戦した。

 しかし、自転車をこぎながらだと自由に足を使うことができない。少年Aは、無謀にも下り坂でそれにチャレンジした。軽快に坂道をすべりながら、自由になった足で「えい!」とばかりに鍵を押しこんだ。前輪がガクンと止まり、後輪が浮き上がった。自転車は前のめりに倒れていき、少年Aは前方に投げ飛ばされた。坂道で前輪をロックすればそうなることぐらい分かりそうなものだ。子供というのは、まったく愚かな存在である。「子供」と書いて「バカ」と読むようにしたほうが良いのではないかと思う。

 チャレンジャー精神に溢れる少年Aは、次に複数による曲芸乗りに挑戦することにした。二台の自転車を並走させ、それぞれの運転者が相手の自転車のハンドルを握る。むろん、自分の自転車のハンドルからは手を放す。それぞれ、相手の自転車を操作しようという試みである。

 はじめの数秒間はまっすぐに走る。まっすぐに走るのははじめの数秒間だけである。ともすれば接触しようとする互いの自転車を一定の距離に保つために、腕に余分な力がかかる。しかし、しょせんは子供の腕力。バランスがとれないままに隣の自転車を制御しようと思っても、無理な話だ。二台の自転車はふらつき、なんとか持ちこたえようとするものの、今にも倒れそうだ。

 このとき「危ない」と判断してすぐに手を放せば助かるかもしれないのに、逆に手に力が入ってしまうのは不思議なものである。人間の本能に従えば、より安全な行動をとりそうなものである。しかし、おそらくは「死なばもろとも精神」というか、「どうせこけるならお前も道連れだ精神」とでもいうべきものが、本能を上回ってしまうのである。結果として、二台の自転車は固く結ばれたまま、破滅への道を走り続ける。

 さらに不思議なことであるが、結果としてこけるにせよ人間はより安全なこけかたを選びそうなものなのに、そうはならないのである。二台ともその場でこけることができれば、せいぜい膝小僧をすりむくぐらいで済んだだろう。だが、これが宇宙の法則の不思議なところで、自転車は最も被害が大きなこけかたをしようと、その方向を微調整していく。自転車はふらつきながらも道路を乗り越え、二台一体となって田んぼに突っ込んだ。

 幸いにして田んぼには水がはいっていたため、ぬかるんだ土が我々の体を受け止めてくれ、少年Aたちがひどいケガをすることはなかった。ところが、不幸にして田んぼに水が入っていたため、少年Aたちの服や体は見事に泥に染まった。いかにも田んぼに落ちましたという格好で家路につくのは、ひどくみじめなことだった(おまけに日はまだ高かった)。少年Aたちは、お互いに責任をなすりあい、泥をなすりつけあった。

 後日、それらのことからいくつかの教訓を学んだ少年Aは、滅多なことで無謀運転をしなくなった。目をつぶって自転車を運転するなどもってのほかで、近所では背筋を伸ばして自転車を運転する少年Aの姿が見られたという。

教訓1 自転車でこけても得るものは無い。
教訓2 それどころか、ケガをする可能性まである。
教訓3 それどころか、近所の笑いものである。
教訓4 以前から笑いものだったという説もある。
教訓5 ここ一年では、二回しかこけていない。




心配症の研究
2000.06.09

 中国の有名な故事に「杞憂」というものがある。むかし杞の国の若者が、毎日空を見上げては「あの空が落ちてきたらどうしよう」と心配したという話だ。しかし、考えてみれば、この若者の家族のほうがよほど心配だっただろう。

 ある日から、自分の息子が毎日空を見上げ続けては何事かをつぶやくようになる。近づいてみると、「落ちる…落ちるんだ…空が…」などとつぶやいている。こちらのことは見向きもせず、ただ、ひたすらに空を見上げつづけている。これは、よほど心臓の強い両親でないかぎり、いったいどうしてよいか分からなくて、途方にくれるだろう。これなら、素直にぐれてくれたほうがまだましだ。

 ところで、ここに登場する息子の心配は、いってみれば非現実的な心配である。ふつうに考えれば、空が落ちてくることなどあるはずがない。「抜けるような青空」という言いかたをすることもあるが、実際に青空がすっぽぬけるわけではない。空は、おそらくいつまでも頭上にあるのである。

 それに対して、両親の心配は現実的な心配だ。両親にしてみれば、息子がいつまでも空を見上げて暮らすようでは安心して隠居もできないし、近所の人は噂話をたてるし、結婚相手も見つからない。この心労は息子のそれとは比べものにならないだろう。

 つまり、世の中には現実的な心配をする人と、非現実的な心配をする人がいる。たとえば、外出をして家から数百メートルほど歩いたところで、ふと「きちんとアイロンを切ってきたかな」と心配になることがあるが、これは現実的な心配である。万が一、本当に切り忘れていたら、実際に何らかの被害がでるだろう。いったん家に戻って確認すれば、すぐに解決するようなことであるが、それを怠ると、外出中ずっと心配し続けなければならない。こういう現実的な心配は、非常にストレスがたまる。開き直って、それを意に介さないような精神力があればよいのだが、そんな図太さをもった人はそもそも心配などしないだろう。だから、このような現実的な心配ばかりをする人は、非常に損をしているといえるだろう。

 一方で、非現実的な心配ばかりしている人もいる。たとえば、私の知っている人は、いつも「宝くじが当たったらどうしよう」と心配している。つまり、宝くじにあたることによって金銭感覚がおかしくなったり、どこかの宗教団体が寄付を求めて門前に列をなしたり、嫉妬した人間が夜中に無言電話をかけてきたりするようになったらどうしよう、という心配だ。私にしてみれば、非常に馬鹿馬鹿しい心配である。

 第一に、宝くじなどそう滅多に当たるものではない。第二に、宝くじが当たることにどれほど嫌な付加要素があるとしても、本質的にそれは嬉しいことである。万が一、心配が実現したとしても、それはそれで心配を上回る喜びがもたらされる。第三に、その人は宝くじを買っていない。そもそも、当たる心配などないのである。

 なるほど、このようなありえないことを心配するのは、あまりストレスがたまらないかもしれない。少なくとも、現実的な心配事を気に病んで、ちくちくと体を刺すようなストレスを感じないですむのである。これは、人生を送る上で非常に得な性格かもしれない。私だって、そのような気楽な心配ごとを抱えた人生を送れるのなら、そうしたことだろう。

 その人が私の母でさえなければ、こんなに心配はしないのに。




筋こそ通らねど
2000.06.03

 小学校の頃はなにかにつけて集会があった。入学式や卒業式はもちろん全校集会や学年集会、始業式、終業式、校長の説諭やレクリエーション会などなど、月に数回は体育館に集められていたような気がする。体育館に集まると、生徒はクラスごとに並ぶ。並びかたは、たいていは背の低い順だったように思うが、ときには名簿順に並んだりもした。全員がそろうと、先頭に立っている者が号令をかける。

「前にならえ!」

というやつだ。

 ところで、私はこの「前にならえ!」という号令の意味がどうもよく分らなかった。「ならえ」とは、いったい何なのか。ひょっとしたら、「習え」なのだろうか。しかし、「習え」と言われたって、何を習えばよいのか。ノートも教科書も持ってきていないし、前にいるのは同級生である。にもかかわらず、先頭に立つものは躊躇無くその号令をかけ、後ろの者は手を前方に差し上げて間隔をそろえるのである。別に、その行動自体には疑問を持たなかったけれど、それに先立ってかけられる号令の意味が分からず、首をかしげながら手を差し上げたものである。

 「ならえ」とは「倣え」だ。今でこそ、その意味が分かる。「倣う」とはすなわち「真似をする」という意味であるからして、「前にならえ!」とはすなわち「前の人の真似をしなさいよ」という意味なのだろう。しかし、この「倣え」という動詞は、どう考えても小学生にとっては難しいのではないだろうか。「飲む」とか「打つ」とか「買う」みたいに、小学生が日常よく使うような動詞ではなく、しかもその命令形である。およそ号令以外では聞くことのない言葉なのだ。おそらくほとんどの子供たちは、この言葉の意味を知らなかったのではないだろうか。

 私も、当時は「倣え」などという言葉は知らず、そもそも「ならえ」が何か意味のある言葉だとは思わなかった。誰もが躊躇なく「前にならえ!」などと言っているけど、それはきっと号令する人が間違っていることを知らないだけで、きっと本当は正しい号令があるのだろうと思っていた。相手が自信たっぷりに間違ったことを言っているときは、なかなかそれを指摘しにくいものである。だから、きっとこの号令は伝統的に間違ったまま受け継がれているのではないだろうか。

 では、正しい号令とはどのようなものなのか。私は、それを「前になれ!」だと考えた。すなわち、「前の人のように整然とした状態になれ」という意味の号令である。おそらくは、「なれ」という言葉がどこかで少しずつずれてきて、いつのまにか「ならえ」という言葉になってしまったのだろう。なるほど、こちらのほうがよほど意味が通る。そう私は考えた。

 そんなある日、私が列の先頭に立つ機会があった。つね日頃、間違った号令に疑問を持っていた私は、これが千載一遇のチャンスだと考えた。私は革命家だった。旧態依然とした前例踏襲を続ける号令制度に風穴を開け、それを正道に戻すという使命を持っていたのである。私の後ろにクラスメイトたちが並んだ。私は大きく息を吸いこみ、ここぞとばかりに大声で号令をかけた。

「前になれ!」

 そう言ったとたん、演壇に立っていた校長先生はきょとんとした顔になった。壁際で見ていた担任はぽかんと口をあけた。そして、全校生徒は爆笑した。私が絶大なる自信を持ってかけた号令は、どうやら間違っていたようであった。考えてみれば、「前になれ」という号令から「前の人のように整然とした状態になれ」という意味を読み取るのは少々無理があったかもしれない。笑い声はいつまでもやむことがなく、私は不動であった。

 その後教室に戻ると、担任が「前にならえ」の意味を説明した。私は赤面しながらそれを聞いていた。とんだ恥さらしではあるが、おかげでクラスメイトはみんな「前にならえ」の意味を知ったのだから、そう悪いことではなかったのかもしれない。それにしても、つくづく人生というのは教訓に満ちている。余計なスタンドプレーはせず、前任者のやったとおりに言えば良かったのだ。

 前にならえ。




白きたおやかな峰
2009.11.28

 いま私の左手には包帯が巻かれている。てのひらにすり傷ができたので、自分で巻いたものである。左手を見ながら私はつくづくと思う。「包帯はいい…」と。

 包帯がこんなにもいいものだとは知らなかった。包帯を巻くだけで、これほどドキドキできるとは思わなかった。そうと知っていれば、これまで包帯なしで暮らしたりはしなかったものを、つくづくもったいない時間を過ごしたものだ。

 まず、包帯を巻くときがよい。広く傷ついたてのひらをそっと包んでいく包帯は、やさしさに満ち溢れている。それは決してきつすぎず、しかしゆるすぎず、強い日差しを覆い隠す木もれびのように、やわらかにてのひらを包んでくれる。一度包帯をつけると、普段身につけている洋服がとんでもなく野蛮なものに思えてくる。そっと巻かれた包帯は、まさに天使の抱擁という言葉がふさわしい。

 そして、包帯の色がよい。包帯の色は、純白である。それ以外の色は見たことがない。ひょっとして包帯のフェティシストが集う店に行けば、ピンクやブルーやスケルトンの包帯があるのかもしれないが、私はそれらを包帯とは認めない。包帯とは、あくまで純白なのである。

 純白は、その清らかさを我々に連想させる。降り積もったばかりの新雪のように、美しくも可憐な印象を見る人に与える。包帯をてのひらに巻くだけで、そこに一種の聖地が浮かび上がるのである。しかも、その純白の包帯の下には、肉色も鮮やかな傷口が広がっている。そのアンバランスは、清楚な見かけとはうらはらに淫靡な心を持つ女性のように、私にはこのうえなく魅力的なものに映るのである。

 さらに、包帯をはずすときがよい。数時間も包帯を巻いていれば、それは傷口とからみあい、一体化したかのようにしっかりとくっつき合う。それをはがすとき、ぺりぺりと小さな音を立てながら、包帯はてのひらから離れていく。それは、決して不快な感覚ではない。はずす前は、傷口から包帯がはがれていくのはさぞかし痛かろうと思うのだが、実際にはずしてみると、実に繊細な痛痒感を与えてくれるのである。足がしびれたとき、それが覚めていくときは苦しいながらも気持ちがよいものであるが、それをずっと微妙にしたような感覚である。しかし、あまり気持ちよいからといって、たびたび包帯をはずすわけにもいかない。包帯は、しばらく放っておかなければ傷口にくっつかない。だから、はやくはがしたいと思いながらも、じっと包帯を見つめていなければいけない。そのじらしかたもまた一流なのである。

 こんなにも、包帯がいいものだとは知らなかったし、思いつきもしなかった。これは、無上の快楽である。このまま素直に傷を治してしまうのがもったいなく思えるほど、包帯は魅力的である。しかし、おそらくは数日もすれば傷は治る。傷もないのに、包帯を巻くわけにはいかない。本来なら、ずっと包帯を巻いて生活したいぐらいなのだが、傷もないのに包帯を巻くのは、ただの変な人と思われるのがオチなのである。

 とはいえ、そのように変人扱いされるのは今だけで、いずれはその偏見も打破されるだろう。今でこそ、無傷で包帯を巻いている人というのは少ないが、ひょっとしたら、この文章を読んで包帯の快楽に目覚めてくれる人もいるだろう。そして、その人たちはきっと「傷がないときでも包帯を巻こう」と思ってくれるはずだ。初めのうちは世間の無理解と闘わなければならないかもしれない。それは、きっとつらい闘いになるだろうが、おそらくは一流の風流人ならそれを理解し、「無傷で包帯巻き」という行為に一種の権威を与えてくれるだろう。そうなれば、真似したがりで権威に弱い俗人たちも、われさきにと包帯を巻きだすに違いないのである。ことわざにもいうではないか。「長いものには巻かれろ」と。




歌おう、感電するほどの喜びを
2000.05.18

 最新の調査によれば、世の中のほとんど全ての人は「電気が好き」であるということが判明している。

 たとえば、子供はたいてい電池を使うのが好きである。彼らは、電池と豆電球があれば必ずそれを接続し、ついたり消えたりする豆電球を飽くことなく眺めている。理科の授業で豆電球を光らせたり、電磁石を作ったりする実験があったりすると目を輝かせる。そんなことはしなかったという人も、少なくとも下敷きをこすって静電気を発生させ、髪の毛を逆立てたことぐらいはあるだろう。そして、その行為がとてつもなく楽しかったことを覚えているはずだ。

 青年も電気が好きである。青年がエレキギターや電気蓄音機を欲しがるのは、決して音楽が好きだからではなく、電気が好きだからに他ならない。青年が夜中にコンビニエンスストアや自動販売機の周辺に群れるのは、そこに「灯かり」という電気的なものが存在しているからだという説もある。そして、家では夜な夜な自家発電に励んでいる。

 大人だって電気が好きだ。銭湯には電気風呂などというものがあるし、疲れてくると整骨院に行って、体に電流を流して欲しくなる。健康診断などで心電図や筋電図を測ってもらい、「あなたの体に流れている電流は○○アンペアです」などと言われると、なんとなく嬉しくなるはずだ。心臓が停止した人だって、電気ショックを与えられると跳ねあがって喜ぶ。米国では電気イスによって死刑が執行されるが、あれは死刑囚に対するせめてものサービスであるという説もあるぐらいだ。

 さて、ご多分に漏れず、私も電気というものには小さいころから非常に興味があった。電気とはいったい何なのか。目に見ることも手に触れることもできない。父上や母上に「電気とはなんでしゅ?」と聞いてみても、いまひとつ要領をえない。それは、実に不思議な存在だった。疑問を解決すべく、私は頭をひねった。いったい電気とは何なのか。電気をつかまえることはできないから、じっくり眺められない。そこで思いついたのがコンセントである。

 コンセントというのは外から見る限り、二つの縦長い穴が開いているだけである。だが、そこにプラグをさしこむと、今まで沈黙していた機械が動き出す。そして、プラグを抜かない限り、半永久的に機械は動き続ける。ということは、コンセントからは常に電気が出ているということであり、これは、じっくり観察するのに非常に都合がよい。ゆえに、電気を知るためにはコンセントを調べなければならない、というのは子供にしては妥当な結論だろう。

 では、どのようにコンセントを調べるのか。第一に思いつくのは、じっとコンセントを眺めつづけるという方法だが、コンセントというのはたいてい部屋のすみっこにあるものだし、子供がじっと部屋のすみを見つめ続けていると、あらぬ誤解を受けかねない。そこで、私のとった行動は実に短絡的だった。すなわち、コンセントにプラグを半分ぐらいさしこみ、プラグの一部が目に見えるようにしておく。その状態でプラグの見えている部分を触れて、電気の存在を確かめることにしたのである。むろん、電気は非常に危険であるというぐらいの知識はあるので、私はゴム製のにぎりがついたドライバーを持ち出して、それをそっとくっつけた。

 結果はいうまでもない。ドライバーは、プラグと接触すると同時に、すさまじい閃光を発した。私は「うひっ!」と叫んで、慌ててドライバーを手放した。幸いにして怪我はなかったが、ドライバーのプラグがあたった部分は焼け焦げていた。鉄製のドライバーでさえこのありさまなのだから、素手で触ったりしていたらただではすまなかっただろう。心臓を激しく鳴らしながら、私は黒く焦げたドライバーを見つめていた。おしっこを漏らさなかったのは快挙だ。

 さて、無謀なる実験の結果、私はコンセントからは目に見えないまでもすさまじい電気が通っていることを確認した。電気の正体を確認したとはいえないが、少なくとも電気とは恐ろしいものであるということは分かったのである。そのときは本当にびっくりしていて、今後はこれほど恐ろしい電気を目にすることはないだろうな、と思ったものだ。

 もっとも、その考えは、直後に否定された。焼け焦げたドライバーを見て、母上の落とした雷は、もっとすごかった。




老いの心理学
2000.04.20

 ほとんど全ての人は老いる。一般的に、人間は一年経てば年齢がひとつ増える。もちろん、例外もあるが(二十五歳以上の女性など)、少なくとも、永遠に生き続けることがないという点は全ての人に共通している。しかし、「老いた」と感じるような状況は、まさに十人十色である。(余談であるが、「十人十色」と打とうとしたら、打ち間違えて「十人トリオ」になった。個人的に、とても面白かったので、ここに記す)。「老いの兆候」とされることはたくさんあるが、それが全ての人にあてはまるわけではない。

 たとえば、「老い」の兆候は身体的特徴にあらわれる。眼のまわりに細かいしわが現われ、髪の毛は薄く細く白くなり、声はしわがれる。そのような特徴を自分で見つけたとき、人は「老いた」と感じるのかもしれない。あるいは、老いは精神的特徴にあらわれる。頑固で自説を曲げないようになり、物忘れが激しくなり、すぐに昔を回顧する。そういうとき、人は「老いた」と感じるのかもしれない。

 むろん、これらはあくまで一般論であり、これらの特徴が備わったとき、ただちに「老いた」と言い切ることはできない。人によっては「物忘れが激しくなった」ということを「余計なことを覚えずにすむようになった」と解釈するだろうし、「髪の毛が次々と抜け落ちる」ことを「進化の究極形態にはいった」と解釈するだろう。つまり、「老いの兆候」と呼ばれるものがあったとしても、それがそのまま「老い」につながるわけではなく、その基準は人によって大きく異なるということだ。

 また、「老いた」と感じるのは、なにも老年や壮年にはいってからだとは限らない。たとえ二十代の若者でも幼稚園児に比べれば「老いた」といえるし、幼稚園児でも胎児に比べれば「老いた」といえる。したがって、「老い」というのは年齢に関わらず、万人が共通して感じることができるものだといえる。

 だから、若さと活力に満ちあふれる私のような人間であっても、ふとした拍子に「老い」を感じることがある。特に、私のような繊細な人間はちょっとしたことで、自分が老いたと感じてしまうのである。

 では、どんなときに「老い」を感じるのかといえば、目が疲れたので目の体操(目玉をぐるぐるまわすこと)をしていたら酔ってきたときとか、風呂にはいったら妙にシャンプーの泡立ちが悪いときとか、雑誌のページをめくろうとしたら指先がうまく動かず一ページずつめくれないときとか、そんなささいなことで「老い」を感じてしまうのである。つくづく、繊細な神経をもつ自分がうらめしい。

 かくて、一日中老いにさらされた私は、寝る前などすっかり老い疲れてしまい、よたよたと布団にもぐりこむ。眠りながらも老い続け、朝起きたときにはすっかり老成している。そして、日中はボケている。




夜明けのダザイスト
2000.04.17

 前にも書いたような気がするけど、うちには太宰治の『人間失格』が、それこそ売るほどある。

 たとえば、デパートの六階ぐらいで「古本市」なんてのが開かれてたとして、そこにはいくつかのワゴンが置いてあって、ワゴンにはたいてい日に焼けて茶色くなった分厚い本が並んでたりする。そして、そのワゴンのひとつには文庫本がぎっしりつまってる。そういうのを見つけると、ついつい眉毛を吊り上げて隣にいる人を威嚇しながら『人間失格』がないかと探してしまう。一冊が五十円とか百円とか、たいして懐が痛むような金額でもなし、見つけるたびに買っていたら、いつのまにやら『人間失格』がずらり本棚に並ぶようになったわけだ。

 じゃあ、そもそもなんでそんなに『人間失格』を買うのかっていえば、もちろん自分が人間として失格だからってわけじゃなくて、それには深い深いわけがあれば面白いんだけど、実のところたいして深いわけでもなく、とにかく高校生の頃だ。

 まあ、どこの世界にもダザイストってのはいるもんだ。統計をとったわけじゃないけれど、ただなんとなく感覚的に、およそ二百人にひとりぐらいの割合でダザイストってのがいるんじゃないだろうかと思う。それで、高校二年生のときのクラスが妙にダザイ密度が濃かったりして、ふと見渡せばクラスにふたり、仮に清水君と大木君としておくけど、そういう人がいたわけだ。

 こいつら、ダザイの本なら何でも読んでるらしくて、「俺って道化なんだよな」だとか「人生は虚構だ」だとか、二人で顔を寄せて嬉しそうにダザイの話をしている。そういうことをひっそりと話すだけなら、別に気になるようなことでもないけど、たまに仲間をふやそうと思うのか、まわりに「ダザイってどう思う?」なんて問いかけてきたりする。それで、うっかり目を合わせたりすると、これは大変なことになって、まあ一人の人間をよくもこれだけ崇拝できるよなってな感じでとにかくダザイダザイとしゃべりまくる。こっちはダザイのことなんてたいして知らないけど、まあなんとなく「ああいう悲劇ぶったやつはヤダよな」なんて生理的嫌悪感があって、三島由紀夫なんかは「太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった」なんて言ってのけていて、これはどっちもどっちだという気もするけれど、とにかくあまり関わりたくはないわけだ。

 で、その日もしつこくつきまとってくる駅前の宗教の人を、「あ、興味ないですから」ってすり抜けて行くときのような気分で、ふたりの話を聞いていた。で、ここからが肝心なところなんだけど、そんなふうに、こっちが死んだ魚の目をしながら話を聞いているのを見て張り合いが無くなったのか、ふたりは一旦口を閉じて物足りなさそうにしてたんだけど、そのとき清水君がクチビルの右のほうだけで笑いながら、

「ま、お前には分かんないか」

 なんて言ったときには、こっちもだいぶカチンときた。ああ、俺にはお前の言うことなんてこれっぽっちも分かんないけど、それじゃお前は分かってるっていうのかよ。だいたい、お前みたいにダザイにいれこんでやつは、自分がダザイみたいな悲劇の主人公に自分を重ね合わせてるんだろうけど、そんなふうに思いこむのは、それこそ恥ってもんだぜ。と、口に出してはいわなかったけど、まあ露骨に表情に出してみたわけだ。むろん、死んだ魚の目のままで。

 さて、それが『人間失格狩り』のはじまり。「何が『恥の多い生涯を送って来ました』だ。『恥の多い人間をつくってきました』の間違いじゃねえのか」なんてぶつぶつつぶやきながら、まあ今から思えば「お前は何様だ」ってな感じだけど、そのときは「このままじゃおさまりがつかない」ということで、とりあえず古本屋に飛んでいって『人間失格』を買ってきた。ここらあたりの心理が、自分でもよく分からないところなのだけれど、ダザイを嫌いだからダザイの本を読まないってのは、どうも「自分のイヤ度を表現しきれてない」って気がしたのだ。ただ読まないのなら、それは無関心というやつで嫌いとは違う。やっぱり、嫌ってるならそれなりの意思表示をしとかなきゃと思ったのだ。それで、『人間失格』の古本を見かけたら、とにかく買いまくることにした。買うときには、心の中で「やい、俺はお前なんか嫌いなんだぞ」と言ってやるのだが、はた目には「好きで買ってる」としか思われないのがくやしいところだ。そんなふうに、とりあえず『人間失格』を買いこんでる間に数年もしたら、いつのまにやら、そんな「ダザイを嫌う」なんて決意もすっかり薄れてきて、いまじゃダザイに関しては幸福も不幸も無く、ただ、一さいは過ぎて行くのだ。




医学部演劇科
2000.04.14

 最近、医学会では「全ての医科大学に演劇科を設けるべきである」という提案が論議を呼んでいる、と聞けば驚かれるかたは多いだろう。私も初めて聞いたときは「なんだそれは」と思ったものだ。しかし、その筋の詳しい人の話を聞いていると、なかなか納得させられる部分が多い。今は一部の専門家の間で話題になっているだけなのだが、いずれみなさんの耳にも入るかと思うので、それにさきがけて、ここでひとつその提案を紹介しておこうと思う。


 まずは、「手術」という言葉を十回続けて言ってほしい。きちんと言えただろうか。おそらく、言えなかっただろうと思う。たいていの人は、「手術」が「ちゅじゅちゅ」になってしまったり、「スズツ」になってしまったりしたのではないだろうか。それがどうした、と思われるかもしれないが、少し説明すれば、これがいかに大きな問題か分かっていただけると思う。

 たとえば、あなたが原因不明の腹痛に襲われて病院にかけこんだとする。そして、こんな会話がかわされるとしよう。

「先生。腹がキリキリ痛むんですが、大丈夫でしょうか?」
「これはいけない。すぐに切開しないと命に関わります」
「えっ! 手術ですか!」
「そう! ちゅじゅちゅでちゅ!」

 この瞬間、医者は「しまった」という表情をするはずだ。こんなシリアスな場面で舌がもつれて「ちゅじゅちゅ」などと言ってしまった。これでは、場の雰囲気がぶちこわしである。緊張感は抜け、医者の権威が失墜してしまう。あなたは「ちゅじゅちゅ」と言う医者を見て、それでもその医者を全面的に信頼することができるだろうか。病気の治療とは、医者との信頼関係である。それが壊れてしまっては、治る病気も治らなくなってしまう。

 これは「スズツ」と言ってしまった場合でも同じである。「そうです。スズツです」などと言われたら、なにやら、東北地方の怪しげな呪術医療が始まるのではないかと身構えてしまう。やはり、信頼関係を保ち続けることは難しい。

 そこで、演劇科を設けるべきだという提案が登場する。医師のタマゴたちが、深刻な雰囲気の中で緊張して「手術」を「ちゅじゅちゅ」などと言ってしまわないように、「声楽」の授業で練習をするべきだというのである。きちんと練習しておけば、舌がもつれる可能性はぐっと低くなる。医者の威厳も保たれる。ひいては、あなたも医者を信頼したまま手術をうけることができるのである。この一件を聞いただけでも、「医大には演劇科を設けるべき」という主張がいかに理にかなったものであるかが分かるだろう。


 あるいは、こんな問題もある。

 医者の仕事で最も重要なことは何かといえば、それは癌にかかった患者に「癌なんかじゃありませんよ」ということである。「癌です」とはっきり言ってしまうと患者は一気に気力を失ってしまうかもしれないし、へたをすれば死にいたる。それはあまりに残酷である。そこで、癌患者には、その気持ちを配慮して「癌ではない」と言うことが普通である。

 しかし、少し考えれば分かるように、これには卓越した演技力が必要である。「癌なんかじゃありませんよ」という一言を言うだけであるが、実際に患者は癌にかかっているわけである。もし「癌ではない」と言うために深刻すぎる表情をしていたら、患者に「ああ、俺は癌なのか」と悟られてしまうし、「癌なんかじゃないぶー」とおどけて言ったりしたら、やはり医者の権威が失墜してしまう。つまり、「癌なんかじゃありませんよ」と言うためには、深刻すぎず、明るすぎず、説得力をもった声と表情をつくる必要がある。しかし、素人の医者がそんなにうまい演技をできようはずがない。

 そこで、必要になるのが演劇科の存在である。患者の信頼をそこなわず、説得力をもった声と表情がだせるように「演技」の授業を設けて練習すべきだというのである。きちんと練習しておけば、無駄に患者を不安に陥れることなく、残った余生を安楽に過ごさせることができる(かもしれない)し、うまくすれば希望を持った患者は気力をふるいおこして、病気が快方に向かう(かもしれない)だろう。やはり、「医大に演劇科を」という提案は、理にかなっている。


 分かりやすい二例を挙げたが、まだまだこんなものではない。医者に演技力が必要とされる場面は数えきれないほどある。そのような状況になったとき、冷静に局面を乗りきるためには、日頃の練習と教育が必要不可欠である。もしかしたら、「くだらない」という一言で片づけられてしまうかもしれない。当の医大生たちは鼻で笑って、きちんと練習しないかもしれない。先進的な提案は、はじめは常人には理解されがたいものである。

 しかし、それらの無理解を無視してでも、医学部には演劇科が必要であると、私は断言することができる。四年間、しっかり「医学部演劇科」で修練を重ねてこそ、自信をもって演劇界へデビューできるのではないだろうか。




科学的にも実証されてます
2000.04.11

 かねてより、なぜミミズに小便をかけるとチンチンが腫れるといわれるのか不思議だった。迷信であるとは知っているが、言い伝えられているからにはそれなりの根拠があるはずだ。小さい頃から禁則のみを教えられて、その理由は聞かなかったため、以来十数年悩み続けていた。

 先日、ようやくこの疑問が解けた。中野宏『人はなぜ迷信が気になるのか』(河出夢新書)を読むと、「ミミズは田畑にとって大事な生き物であり、小便をかけたりするものではないという禁忌である」と書かれている。田畑の恵みを受ける人間にとっては、なるほどミミズは尊い生物なのであり、それを汚すことは許されないのだろう。それならそれで、ミミズを大事にしなさいといってくれればよいものを、なまじ「チンチンが腫れる」などというから、かえってミミズの社会的地位がおとしめられてしまうのだ、という気がしないでもないのだが、一応は理由づけがなされたので納得できた。

 ところで、この『人は〜』を読んでいると、世の中には他にも様々な迷信・俗信があることが分かる。「お雛様は早くしまわないと、娘が縁遠くなる」「茶柱が立つと縁起がよい」など、我々のよく知っているものもいくつかある。しかし、多くは聞いたこともないものばかりで、世の中にはこんな迷信があったのかと驚かされるものが多い。

 たとえば、「人に砂をかけると、身体がグニャグニャになる」というのは初めて聞いたが、本当にこれが信じられている地域があるのだろうか。砂をかけたらグニャグニャになるのだったら、砂場で遊んでいる子供たちはもはや軟体動物のようになっているのであろうか。それとも、それを通り越して内臓がドロドロになっているのだろうか。外見上はそう見えないし、本人もそう気づいていないようであるが、実は子供たちはゼリーのようになっているのだろうか。身体がグニャグニャになるのだったら、やはり、バレリーナや新体操をする人々は、演技をするまえに砂をかぶったるするのだろうか。客席には「砂かぶり席」なども用意されているのだろうか。疑問は尽きない。

 「アリジゴクを枕に入れておけば、夫婦の仲が和合する」というのもある。私は妻帯者ではないのでよく分からないのだが、やはり寝る前に妻がアリジゴクを入れていたりすると、よし今日はやるぞ、という気分になるのであろうか。夫婦の仲が冷めてきたことを感じたら、アリジゴクをつかまえてくるのだろうか。それとも、世間一般の家庭ではアリジゴクを飼っていて、いざというときに備えているのだろうか。これまた、疑問が尽きない。少なくとも、私はアリジゴクを飼うような(ましてや、枕にいれるような)人とはお近づきになりたくないのだが。

 さらに、こんなものもある。「朝焼けと姑の笑い顔は油断するな」。これは、ある程度分かる気がする。解説すると、朝焼けは雨の前触れだから気をつけなければならないし、姑の笑い顔はいやがらせの前兆(かもしれない)から同様に気をつけるにこしたことはない、ということだ。一応、頭では納得できるのではあるが、なにも「朝焼け」と「姑の笑い顔」を結び付けなくてもよいのではないだろうか。なんだかオヤジ的センスがただよう迷信である。だいたい、相手に笑いかけて警戒されるのでは、姑の底意地が悪くなるのも当たり前である。

 迷信や俗信の類はこのようなものなのかもしれないが、解説なしで聞かされると納得できないものが多い。むろん、それなりの理由がそれぞれの迷信にはあるのだろうが、いまだに理由が解明されていないものも多いのである。初めて聞いた迷信の中で、まともに納得できるものは数えるほどしかない。一例を挙げると、

「便所に落ちると、出世しない」

 まったくそのとおりだと思う。




縦横無尽
2000.04.07

 多くの人が指摘していることではあるが、ウェブブラウザの文字は読みにくいものである。行間がつまっているとか、文字が小さいとか、ブラウザの横幅いっぱいに文字が往復するとか、そういう単純な理由もあるのだが、根本的な原因として「文字が横書きである」というのがある。

 ボクシングの有効な戦術に、横の動きから縦の動きへの移行、というものがある。サイドステップで牽制しながら、相手の目の動きを横方向への移動へ慣らしておく。そうしておいて、突然身を沈めるなどの縦の動きをとりいれることによって、相手の目を混乱に落とし入れるという戦術だ。横の動きに慣らされていた相手は急激な縦の変化についていけず、一撃必殺アッパーカットをくらうことになる、という算段である。

 それと同じで、普段から縦書きの文章に慣れている目にとって、横書きの文字は読みにくいものだ。むろん、日本語は縦にも横にも書くことができる便利な言語ではあるが、通常は縦書きで書くことが多い。そこに、いきなり横書きの文章をぶつけられると、脳がその変化にたえられず混乱を起こす。そうして、面白い文章を読み飛ばしてしまったり、つまらない文章が非常に印象に残ったりしてしまうのである。その意味では、私のサイトには横書きが都合がよいのだが、やはり他のサイトの文章は縦書きのほうが嬉しい。

 また、横書きの文章といえば、なんといっても専門書や技術系の書物の類が多い。書店の専門書コーナーに置かれてあるような本は、半分以上が横書きである。しかも、たいていが難解な内容だ。ゆえに、横書きの文章を見ると専門書漬けになっていた頃を思い出して、「うえっ」と心理的なブレーキがかかり、余計に読みにくいような気がするのかもしれない。

 むろん、解決策はある。わざわざ苦労して文章を縦書きに直す必要などない。単に、パソコンのモニタを横に倒してしまえば良いのである。デスクトップパソコンの大きなモニタを横に倒すのは大変だが、ノートパソコンなら手軽に横に倒すことができ、そのまま安定した状態を保つことができる。そうしておいてから文章を読めば、あら不思議、横書きの文章が縦書きの文章になっているのである。

 もちろん、文字も一緒に横に向いているという欠点もないわけではない。しかし、そんなのは小さなことだ。今は、縦書きか横書きかを考えるべきなのであって、文字が縦向きか横向きかなどは、コーラを飲んだらゲップがでた、などということよりもつまらない事柄である。もしどうしても気になるのであれば、フォントの向きを変えればよいし、それすら面倒くさければ視神経を横につけかえる手術を受けるなどの措置をとれば、すぐにでも解決する問題なのである。

 他にも欠点がないわけではない。たとえば、マウスの動きがそうだ。通常、マウスを前後に動かせば、カーソルは画面上を上下に動く。しかし、ノートパソコンを倒した状態でマウスを前後に動かすと、カーソルが左右に動いてしまうのである。考えてみれば、当然の話だ。コーラを飲んだらゲップがでるというぐらい、当然の話だ。だからといって、キーボードを使って操作しようにも、キーボードはノートパソコンごと横倒しになっているためボタンが押しにくい。これはちょっとした欠点である。

 欠点といっても、マウスが使いにくくてしょうがない、ということではない。むしろ、その逆で、楽しすぎるのである。マウスを前後に動かすと、カーソルが左右に動く。これは非常に新鮮な感覚である。ただ単にパソコンを横に倒すだけで、マウスを動かすという単純で無機質な作業が、あたかも新しいゲームのように楽しめるようになるのである。そして、夢中になってマウスを操作しているうちに、当初の目的がなんであったかということはすっかり頭から抜け落ちてしまう。どこをクリックするつもりだったのか、どのボタンを押すつもりだったのかを忘れてしまう。

 他にもいくつか小さな問題点がないわけではない(パソコンが不安定、横に倒したら部品がはずれる音がした、突然強制終了する、など)。しかし、そのように縦書きの欠点ばかり気にしていてもしょうがない。それらの欠点を補ってあまりある利点が縦書きにはある。

 その利点の効果は絶大で、読みにくいうえに使いづらい縦書きに十数分も耐えていれば、今度は横書きがすばらしく思えてくるのである。おかげで、すっかり横書きが楽になった。




恐るべき家電たち
2000.03.31

 「二大恐怖家電」といわれるものがある。冷蔵庫と電話機である。電話機が家電かについては異論があるかもしれないが、少なくともうちの電話機にはコンセントが付いているので家電といってもさしつかえはないだろう。なお、「二大恐怖家電」という言葉は今私がつくったばかりの言葉なので、知らなくても気にする必要はない。

 冷蔵庫は不気味である。常にヴーンとうなっているのも不気味なら、ドアをあけると黄色い光を発するのも不気味である。夜中にドアが開いた冷蔵庫から光が漏れ出ているのを見ると、まるで異界への門であるような気がしてくる。

 また、冷蔵庫はふだん使っていないと、何が詰まっているか分からない。ふだん使っている冷蔵庫ならば、おそらくいつもどおり、卵とたこ焼きソースぐらいしかはいっていないことが予測されるが、たとえば数年間空家に放置されていたような冷蔵庫だったらどうだろう。どこか不気味な印象を抱くと思う。ドアを開けたとたんに妖怪が飛び出してきてもおかしくないし、切り刻まれた死体が入っているかもしれない。あるいは、数年前につくられたカレーの残りが入っているかもしれない。いずれも、空けた途端に生涯忘れることのできない恐怖を味わってしまうことになる。

 電話機も恐怖家電だ。携帯電話の普及により、その神秘性はかなり薄れてしまった感があるが、それでもその地位は健在である。電話というのは、相手側の姿が見えないのに、声だけが届く。それだけに、ダイアルをまわしたら、相手がとんでもない人物(ヤクザ、警察、宇宙人、腹話術師など)かもしれない。これは、電話を受けるときもかけるときも変わらない。電話というものは、ひとつ番号を違えるだけで、決して覗いてはいけない世界にかかるかかるかもしれないものなのである。

 しかし、いくら怖いからといって、冷蔵庫や電話機を避けて暮らすわけにはいかない。それは、現代生活に不可欠とは言わないまでも、あれば格段に利便性が向上する製品であるからだ。標準的な生活を営む以上、使わずにはいられない。したがって、冷蔵庫や電話機を使うときは、できるだけ脳の想像力の回路を閉じてしまう必要がある。

 そういえば、少し前に怖い話を聞いた。ピルルルピルルル、と電話機が鳴る。慌てて電話台に駆け寄ると、電話機が置かれていない。しかし、電話機は鳴り続けている。おかしい。どこに置いてあるのか、と探していると、どうやら台所から聞こえてくるようである。不審に思いながらも台所に入ると、冷蔵庫の中から音が漏れ出ている。冷蔵庫の中に電話機が入っているなんて考えられない。不気味に思いつつ、冷蔵庫を開けると、そこには切り刻まれた死体が押しこまれていた。その死体の首が、目を開いてこちらを見ながら、ピルルルピルルルとベルの真似をしていたのである。

 これは怖かった。個人的には「怖い話ランキング」の中でもベスト3にはいるような怖さだ。二大恐怖家電がともに登場するだけに、身も凍るような怖さである。それを一緒に聞いていた友人も、震えながら言った。

 「そんな電話には、誰もでんわ…」

 このときは、本当に身も凍った。




夜伽ばなし
2000.03.23

 我がまくらが反乱を起こした。

 朝起きると、体のまわりに水色のプラスチック片が散乱していた。一瞬、何かの病気かと思ったが、そんなふうに考えるほうが病気だと思い直して、原因を調べた。原因は非常にあっさり見つかって、プラスチック片はまくらの中身であることが判明した。寝ている間に、私の頭の動きに耐えかねたまくらは破れてしまったようだ。繊細な人は、まくらが替わると寝られない、とよく言うけれど、この一件で自分が繊細ではないのだな、ということを改めて確認することができた。少なくとも、ベッドの中では。

 それにしても、羽毛とかもみ殻の詰まった枕でなくて良かった。もし、そんなものが入っていたら、おそらく起きたときは大惨事だっただろう。朝起きて、もし羽毛が体のまわりに飛び散っていたら、自分が鶴にでもなったのかと勘違いしたかもしれない。それで、「ついに私の正体を見てしまいましたね、ヨヒョー」とか言って、ベランダから飛び出してしまったかもしれない。つくづく、羽毛まくらでなくて良かった。

 気をとりなおして、飛び散ったプラスチック片を集め、まくらに詰めこみ直した。忘れないうちにまくら袋を買いなおすことにして、とりあえずはガムテープで補修をしておいた。「まくら袋」というものは、どこに行けば売っているのかよく知らないが、おそらく寝具売り場にでも売っているのだろう。「まくら袋」が単体で売っていなければ、まくらをまるごと買えばよい。

「いらっしゃいませ、何をお探しですか」
「まくらをひとつ」
「どんなものをお探しでしょう」
「そうだな…、きみのひざまくらはどうかな」
「やだ…お客さんったら…。ポッ」

 そのような展開は、千パーセントの確率でありえないと断言できるが、色々なまくらを見てまわるのは意外に楽しそうである。

 そういえば、だいぶ前にニュースで「まくらの展示会」なるものが紹介されていた。全国のまくら製造業者やまくら職人が腕をふるってつくったまくらを一堂に集め、その性能を紹介する、というイベントだ。その中に「腕まくら」という商品があったことだけ覚えている。本当の商品名はもっと愉快なものだったと思うが、かたちはそのまんま「腕」だ。リアルな質感をもった腕型のまくらを頭に敷いて寝るのである。業者は「ひとり身の寂しいかたに」とか言って紹介していたけど、そんなまくらを買ったら余計に寂しさがつのるだろうと思ったものだ。それを手にしていたレポーターも、どこか嘲弄の目つきをしていたことが、深く印象に残っている。

 しかし、考えてみるに、そのような「まくらの展示会」が開かれるということは、世の中にはそのイベントに出かけるような「まくらマニア」というものが存在するのではないかと思われる。「まくらフェチ」と言いかえてもいいかも知れない。そもそも「まくら」とは夜の生活に欠かせないものであるからして、熱狂的なフェティシストがいて当然だろう。人には見せられないような抱きまくらとか、人には触らせられないような質感のまくらとか、人には舐めさせられないような味のまくらとかがあるのだろう。いろいろ想像力をかきたたせてくれる。できることなら、まくらフェチのかたが薦める「至高のまくら」というのを一度使ってみたいような気もする。きっと、そのまくらは夜も眠らせてくれないに違いない。




星ぼしの荒野から
2000.03.16

 今、手元に「ウルトラ怪獣大全集」がある。幼少のみぎりに買ってもらった本だ。おそらく、十歳になるまでに、二万回以上読んだであろうと思われる。表紙はぼろぼろ、後半部分は破り取られてすっぽり抜け落ちている。随所で補強のために貼られたテープは黄色く変色している。十歳を越えてからは、せいぜい二回ぐらいしか読んだことは無い。

 パラパラとページをめくる。「これがウルトラの国だ!」という扇情的なタイトルとともに、「ウルトラの国」の写真が掲載されている。見たとたん、衝撃を受けた。すごくチャチだ。写真の中央には、どうみても厚紙でつくられているとしか思えないビルがまばらに立ち並び、遠景には、どう見てもダンボールを切り抜いたとしか思えない山々がそびえている。どうみても哺乳瓶のフタとしか思えないロケットが飛び、どうみてもサラダボウルを伏せたとしか見えないドームがたっている。

 ……。

 いや、こんなことを書きたかったのではない。とある小説に「ウルトラマンに出てきた何某」という記述があって、それが妙に気になった。その怪獣がどんな姿形をしているのかが知りたくなったのだ。以前クローゼットを整理したときに、視界の片隅に「ウルトラ怪獣大全集」を見たような記憶があり、苦労して捜し出してきたのである。「ウルトラの国」に関してはチャチかもしれないが、怪獣のことに絞れば、まさにこれは大全集だ。シリーズに登場した怪獣一匹ずつに、分類や説明、写真などが付けられている。

 例えば、有名な「バルタン星人」の分類は「宇宙忍者」である。そういえば、そうだったような気がする。宇宙の忍者である。「宇宙」も「忍者」も、子供たちの憧れである。これでは人気が出ないわけがない。今更ながら、私は深く納得した。「有翼怪獣ドラゴ」「灼熱怪獣ザンボラー」「宇宙恐竜ゼットン」など、名前を見るだけでかっこいい怪獣が目白押しである。なんだか、ビデオでも借りてきて、鑑賞してみたい気分になった。

 一方で、これはどうかと思うような分類や名前も多い。「潮吹き怪獣ガマクジラ」。これはどうだろう。「潮吹き」という時点で、もうダメである。決して子供たちが憧れるものではない。「ガマクジラ」という名前もいけない。どう考えても、ガマとクジラの合いの子のイメージしか思い浮かばない。しかも、写真を見ると本当にそうなのだから、フォローのしようがない。

 解説もふるっている。「真珠の光を見ると、口から長さ50mのホース状の舌を伸ばし、真珠を吸い込む」と書いてある。何を考えてるんだこいつは、という気分になる。お前は怪獣なんだろう。隠し芸大会じゃないんだから、もっと怪獣らしいことをしろよ。

 いいかげんな名前もたくさんある。「ヤドカリ怪獣ヤドカリン」「河童超獣キングカッパー」「泥棒怪獣ドロボン」。姿かたちもそのまんまだ。やる気があるのだろうか。それとも、子供相手だからこんなものでいいと思っているのだろうか。あるいは、この名付け方には、何か製作者の思想でもあるのだろうか。なんにせよ、こんなものに夢中になっていた十歳以前の自分が憎らしいような、可愛らしいような、複雑な気分である。

 ページをめくっているうちに、目的の怪獣を見つけた。しかし、もはや探すまでも無かったかもしれない。「さぼてん超獣サボテンダー」は、やはりサボテンの形をしていた。




電子的体験
2000.03.07

 なぜ、この世から電子音は消えてなくならないのであろうか。

 私は、特に強く電子音を憎んでいるわけでもなく、積極的に「消えてなくなれ」と思ったことはない。しかし、少なくとも耳に快適な音ではない。多くの人にとっても、耳障りな音であると思う。あまり良い音とはいえないのだから、自然消滅してしまいそうな気がするのだが、消えてなくなるどころか、世の中には電子音が増えるばかりである。メーカーの人も、やろうと思えばもっと良い音を出すことぐらいできそうなものである。なのに、なぜわざわざ耳障りな電子音をだす製品をつくり続けるのだろう。

 どうも、電子音は、人を「ほんの少しだけ」いらつかせるような効果があるような気がしてならない。例えば、我が家の電子レンジは「チン」と鳴る代わりに「ピピッ」という電子音を発して加熱が終了したことを告げる。これが、どうしても信用できない。はたして、本当に加熱されていたのか。終了音が何であろうとも、途中にやっていることは同じはずである。それなのに、機械音か電子音かの違いだけで、少し電子レンジが信用できない気分になる。すると、それを見越したように、電子レンジは「ピピッ、ピピッ」と鳴る。加熱が終了した後に扉を開けないと、「はやく取り出しなさいよ」とばかりに再び注意音が鳴るようになっているのである。これが私を微妙にいらつかせる。言われなくても分かっている。お前に指図されるいわれはないのだ、という気分になる。しかし、放っておくといつまでも電子音は鳴り続ける。それは、深爪をしすぎて缶ジュースのプルトップがうまく空けられないときのように、私を微妙にいらつかせる。

 私の枕元には、ジリジリと鳴る機械式の目覚し時計がある。それ以前には「ピピピッ」と鳴る電子式の目覚まし時計が有ったのだが、今ひとつ目覚まし効果が薄かった。ただでさえ朝は不機嫌だが、電子音が鳴ると、余計に不機嫌になる。ごく、微妙な違いであるのだが、それが気になって、目覚し時計を買い換えた。虫が好かないというだけであって、嫌いと言いきってしまうほどではない。しかし、電子音に目覚めさせられるということは、CDを包むセロファンの剥がし口が見つからないときのように、私を微妙にいらつかせる。

 腕時計や携帯電話、メロディ電報など、私を微妙にいらつかせる音にはことかかない。電子音がかくも世間に幅を利かせているのは、あまりにも「微妙」すぎるからだろう。この世から消し去ってしまうほど嫌な音ではなく、積極的に消し去ろうという気にはならない。あまりにも微妙であるがために、「まあ、べつにいいじゃん」的な考えから、現代のような電子音社会が成立しているのだといえる。あるいは、そのようなことは全て私の感覚がおかしいのであり、世の中にいるほとんどの人は電子音を快適に思っているのかもしれないが、私にはおよそ電子音を「良い音だ」と思える人がいるとは思えない。やはり、あまりの微妙さゆえに放置されていると見るのが妥当だろう。

 この「電子音とは微妙にイラつく音である」ということを考えると、電子音の違った利用法が見えてくる。たとえば、電子音は精神修養に使える。座禅を組んで、心をからっぽにする。その状態で、間欠的に電子音を鳴らしてやる。これで心が波立つようであれば、まだまだ修行が足りない。電子音ごときで心が揺れてしまうようでは、凡人と変わらない。もし、電子音を聞いても一切が気にならず、いらつきがないようであれば、それこそが無我の境地といえるのかもしれない。

 また、電子音は拷問にも使える。その昔、「しずく攻め」と呼ばれる拷問があったという。椅子に縛り付けた人に、不定期に一滴ずつ水をしたたらせ、それをいつまでもいつまでも続けると発狂してしまうのだという。要は、それの電子音バージョンである。拷問したい人間を一室に閉じ込めて、不定期に短い電子音を聞かせる。「ピッ……ピッ…………ピッ……ピッ」と音が鳴り続ける。はじめは、ごく微小ないらだちを感じるだけであるが、続けていくうちに、次第に正常な精神のバランスを失っていく。そして、最後にはキチガ(ピー!)になってしまうのだ。

 ほら、こんなふうにも役立つ。




医者はどこだ
2000.02.18

 病院に行ってきた。半年に一回ほど、薬を取りに町立総合病院に行く。本来なら休日に行くところだが、あいにくと休日に診察している科は限定されていて、やむなく平日に訪れるしかない。外にはちらちらと雪が降っていて、出かけるのは億劫だったが、後まわしにするわけにもいかない。

 受付時間は午後二時から。だからといって時間ギリギリに行くと、平日の昼間から暇にしている爺や婆に先をこされて、帰るのが午後七時ごろになってしまうので、一時間前から受付のために並ぶ。こうやって早く並べば、五時前には帰れるのである。一時間ばかり爺や婆に混ざって並んでいた。爺や婆はもはや常連であるらしく、仲良く談笑しているが、私がその仲間に入るには、八十年ばかり生まれてくるのが遅かった。

 爺や婆の会話を聞くともなしに聞いてたが、あまり面白い話ではない。病院に行くと、患者どうしの不幸話がはじまって、自分がいかに重大な病気を患っているか対抗しだすのが常であるが、今日の爺や婆はそういう気分ではないらしい。ならば、おとなしく天気の話でもしていればよいものの、何を考えたか病院の医師たちの噂話をはじめた。山下先生は大学病院をかけもちしているから腕は確かだとか、植田先生は患者の話を親身になって聞いてくれるとか、佐野先生が患者さんに手を出したとか、独自の情報網から得た噂を延々と繰り広げる。まったく、他人の噂話なんてどうでもいいだろう、と横目で爺や婆を眺めて苦々しく思いつつ、メモをとった。

 そうこうしているうちに、二時になった。受付で整理券をもらい、診察室の前に移動する。診察は三時からなので、さらに一時間ほど待つことになる。このあき時間に近くに買い物など行くと、いつのまにか診察が始まり、順番をとばされて、結局午後七時ほどまで待たなくてはならなくなる、ということを経験上知っているので、診察室の正面にどかりと腰を据える。

 それにしても、昼間の病院というものは、いる人間の種類が限られている。あたりを見まわしても、爺や婆や子づれの母がほとんどである。妙齢の女性などは、どこを見渡してもいない。妙齢の女性が隣にでも座っていれば、甘酸っぱいラヴストーリーを妄想の中で繰り広げて時間をつぶせるのだが、昼間の病院には素材が少なすぎる。若い看護婦さんもいることにはいるが、看護婦さんを素材にすると、なぜだか官能小説になってしまう。かといって、婆を素材にすると怪奇小説になってしまう。しょうがないので、おとなしく本を読んでいた。

 三時を半時間ほどすぎたころに名前を呼ばれる。薬を貰うだけなので、診察はいたって簡単。五分で終わる。処方箋をもらって、会計のためにさらに二十分待つ。結局、待つだけのために三時間近く座っていたことになる。日が傾いて、だいぶ暗くなった空を見ながら病院をでると、昼ごろ降っていた雪はやんでいた。ついでに、長時間座りつづけた私の尻も病んでいた。




吸いこまれるように
2000.02.15

 掃除機をかけていたのだが、どうにもこの掃除機は莫迦なやつである。どれぐらい莫迦かといえば、はじめから吸いこめないであろうと思われる、くつ下やボールペン、みかんといったものを吸いこもうとするぐらい莫迦なのだ。多少の判断力があれば、そんなものを吸いこもうとする前に止まりそうなものだ。私だって、口にみかんを突っ込まれたら、息を止める。

 一応、断っておくが、決して掃除機を操っている人間が莫迦なわけではない。その証拠に、私は掃除機ではみかんを吸いこめないことも、掃除機をかける前に大きなものはどけておかなければならないことも知っている。それでも、ついみかんなどを置いたまま掃除機をかけてしまうのは、単に一般のレベルよりもほんの少し私の学習能力が劣るというだけであって、それを莫迦と言いきってしまうのは学問的に良心的な態度とはいえないだろう。それにひきかえ、掃除機は何度同じ失敗をしても、みかんを吸いこもうとする。これは莫迦だ。

 しかし、「莫迦な子ほどかわいい」という言葉もある。そう思うと、どうもこの掃除機がいとおしく思えてくるから不思議なものである。何しろ、十年来使っている掃除機なので、彼のことはすみずみまで知っている。腹の中まで知っているし、下の世話もした。ここまで親しい仲の者は、そうはいまい。CDケースを包んでいるセロファンのゴミなどを、「ブホッブブホッ」といいながら、必死で吸いこもうとする姿などを見ると、思わず抱きしめてやりたくなるほどだが、十年来使っているせいですっかりゴミっぽくなってしまったので、あまりさわらないようにしている。

 そろそろ、この掃除機も買い替えどきかもしれない。「かわいい子には旅をさせろ」という。「君はいまから『夢の島』に行くんだ」などといえば、莫迦な掃除機は、騙されたとも知らず喜んで旅立って行くのではないだろうか。私ですら騙されそうなほど、『夢の島』という言葉は魅惑にとんでいる。「旅は道連れ、世は情け」ともいう。旅立ってしまえば、同じ境遇にいる者たちと、なぐさめあって生きていくことができるだろう。

 それに、夢の島なら現在の状況とさして変わらないような気もする。




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