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くれゆくひととせ
2000.12.20

 私の通っていた小学校では、クリスマスを前に「合奏コンクール」というものがあった。クリスマスにちなんだ曲をクラスのみんなと合奏するというものだ。小学生のやることだからサックスとかホルンといった複雑そうな楽器を奏でたりはしなかった。合奏コンクールの花形は、なんといっても「木琴」だったと思う。花形にしては地味だけど、少なくとも私はそう思っていた。指揮者やシンバルも目立ってかっこいいけれども、やはり木琴の魅力にはかなわない。軽快な音を響かせ二本のばちを自在に操る姿は、まさに合奏コンクールの主役であった。

 こうやって木琴を持ち上げておいて言うのはなんだか恥ずかしいのだけれど、私の役割はその合奏コンクールの主役ともいえる木琴奏者のすぐ隣でトライアングルをたたく係だった。トライアングルとは、細長い鉄の棒を三角形に曲げて、それを同じく細長い鉄の棒でたたく、という楽器だ。たたくと「チーン…」という音がする。わりとみじめだった。

 ポコポコと軽快な音を響かせる木琴。その隣で「チーン…」。はじめは誰かの陰謀かと思ったものだ。トライアングル奏者は三人いた。ポコポコと軽快な音を響かせる木琴。その隣で「チーン…チーン…チーン…(ハーモニー)」。あとには誰かの陰謀であることを確信したものだ。

 一応、楽器別に練習などをした。部屋の片隅でトライアングルを手にとり寄り添う三人。無言である。「チーン…」という音だけが響く。そこだけ別世界だ。遠くから木琴の軽快な音が聞こえてくる。先生はたいていそっちにいる。たまにこちらの世界にやってきて、我々の練習ぶりを観察する。三人は並んで「チーン…チーン…チーン…」。先生は満面の笑顔で「上手い、上手い」と言ってくれた。とても嬉しくなかった。

 そんなこんなで、トライアングルにいやけがさしていたころ、転機がやってきた。「木琴奏者をもう一人増やそう」と先生は言った。「どうも音のバランスが悪い」らしいので「トライアングル奏者をひとり減らしたい」そうだ。なかなか失礼なことを言う先生だ。ともあれ、われわれ三人のうちから一人が抜けることになった。三人はにわかに活気付いた。そう、これでこそクリスマスである。

 先生はいまだ三人のうち誰を木琴奏者にするのか考えていないようであった。この数少ないチャンスをなんとかつかもうと、私は必死でアピールした。先生の目に止まらんとして、発情した猿のようにトライアングルを激しく打ち鳴らした。幸せは自らの手でつかみとらなければならない。そして、それは効を奏した。先生は私の激しいアピールに心を打たれて、こう言った。「トライアングルが好きみたいだね」。その後、木琴奏者に選ばれた裏切り者を横目で見ながら思った。「けっ、先公に媚びやがって」

 それから、ますます練習は暗くなった。二人で向かい合ってトライアングルをたたく。あちらから「チーン…」。こちらからも「チーン…」。托鉢僧だってもう少し元気に行脚するだろう。ともかく我々は沈み込むばかりであった。おそらく、先のようなチャンスはもう二度と巡ってこないだろうと思っていた。小説じゃあるまいし、そうそう都合のいい展開にはならないだろう。まったくそのとおりで、そのまま本番がやってきた。

 私の晴れ舞台にふさわしく、空はどんよりと濁っていた。たった数分間のことだ。これぐらいでくじけたりはしないぞ。そう自分に言い聞かせた。それに、私はひとりじゃない。ひとりでトライアングルをたたくのは猛烈に寂しいけれど、私には仲間がいる。合奏コンクールで目立つことなんかより、私はもうひとりのトライアングラーとの友情を大切にしたい。きれいごとかもしれないけれど、私は彼を裏切ったりしない。そう思っていたら、彼は本番を欠席した。

 ひとりでトライアングルを持たされた私がどうしたかといえば、もちろん立派に舞台をつとめあげた。二台の木琴の横に立ち「チーン…」。一人ではハーモニーも何もあったもんじゃない。季節はずれの風鈴のように、虚しく音が響く。

 チーン…。




ほめ称えよ
2000.12.05

 優しくほめればつけあがる。むりやりほめれば角が立つ。甘くほめれば流される。意地でほめれば窮屈だ。とかくにほめるのは難しい。

 うまくほめるというのも難しいが、うまくほめられるというのも難しい。まず、ほめられるようなことをしなければならない。一口にほめられるようなことといっても、たくさんある。横断歩道で立ち往生しているおばあさんの手をひいて渡ったり、坂道で疲れきってしまったおばあさんを背負ってあげたり、エスカレーターになかなか乗れなくて困っているおばあさんの背中を一押ししてあげたり、そういうのはほめられるようなことなのかもしれないが、善行としては弱い。

 だからといって国際テロ組織が国連ビルに仕掛けた爆弾を解体したり、宇宙から来襲した宇宙怪獣を巨大化してやっつけたり、銀行強盗が人質を楯に銀行に立てこもっているのを見かねて銀行業務を手伝いにいったりするのは、ほめられるようなことなのかもしれないが、強すぎる。

 そのへんのさじ加減が難しい。あまりに貧弱な善行ではほめられるのが照れくさい。あまりに強力な善行ならばほめられるまでもない。ほめられるにちょうどよい善行というものがある。それを実行するのはなかなか難しい。

 また、ほめられたときの反応も難しい。「よくやった」とほめられて仏頂面をしているのは、いかにも感じが悪い。本心では素直に嬉しいのだけれど、それを表に出すのが照れくさくてブスっとしているだけなんです、と心で訴えても通じはしない。本心では素直に嬉しいのだけれど、ただ単にブスなんです、と心で訴えても通じはしないけど、それはわかってもらえる。

 一方で、「よくやった」とほめられて大げさに喜ぶのもみっともない。「いやあ、そんな、当然のことをしたまでですよ。ハハハ(笑い声)」なんて言うと、逆に品性を疑われる。ほめられたのだから喜ぶのが正しいはずなのだけれど、それがそのまま通用するほど世の中は甘くない。喜んでも、喜ばなくても、どっちにしろはかばかしい反応は得られないのだから、難しい。

 ほめられたあとの人生をどう送るかも難しい。ほめられたからには、きっと「いい人」と思われているはずだ。一度「いい人」になってしまうと、悪いことをするのが難しくなる。ふだんは冷たい人がたまにやさしい面(仔犬とたわむれるなど)を見せると、その行為以上に「いい人」に見える。逆に、ふだんはやさしい人がたまに邪悪な面(仔犬をたわませるなど)を見せると、その行為以上に「やな奴」に見える。したがって、「いい人」は邪悪な行為がやりにくい。一度ほめられただけで、その後もほめられつづける人生を歩まねばならないのは、わりとつらそうだ。

 これだけほめられるのは難しいというのに、得られるものはほとんど何もない。せいぜい「ほめられた」という満足感ぐらいのものであって、それすらも「ほめられてしまった」という後悔に変わってしまうかもしれないのだ。それだったら、はじめからほめられないほうがいいのかもしれない。ほめられてストレスをためるのもバカらしいし、それがもとでストレス死してしまうかもしれない。今度からはほめられたら相手が自分を殺そうとしているのではないかと疑ったほうがいいかもしれない。なるほど、これがほめ殺しというやつか、と。




ツメと会議
2000.12.02

 人はたまに果てしなく くだらないことを考え出してしまうときがあり、果てしなく くだらないことはわかっているのに自分ではどうしても止まらないということがある。たとえば、ツメを切っているときに、ふと「どうしてツメは伸びるのだろう」という疑問が頭をよぎる。一度よぎってしまうと、もう取り消すことはできない。結論が出るまでツメを切ることも忘れて考え込んでしまうことになるのである。

 そんなくだらないことを考えている暇があったら、もっと実のあることを考えるべきなのである。アフリカの大地に埋まる地雷をどうやったら撤去できるのかとか、南米の熱帯雨林をどう保護していくのかとか、魚の目はどういじったら気持ちいいのかとか、そういう地球規模で重要な問題は山ほどあるのだ。にもかかわらず、くだらない思考は止まらず、あまつさえ「ツメ伸びどうして会議」などを頭のなかに作り出してしまい、議論をさせはじめてしまうのである。

 「ツメ伸びどうして会議」の出席者の一人は言う。「ツメというのは人間の指先にあり、多くのものに触れる。したがって、ツメの磨耗を補うためにツメは伸びるのだ」と。しかし、この主張は他の多くの出席者たちの失笑を買っただけであった。「では、どうしてあれほどツメが伸びる必要があるのか。ひと月に三度も切らねばならぬほどツメは伸びるのに、すりへっているのはわずかではないか」。その指摘に答えられなかった発言者は顔を赤らめ、自らの主張をひっこめたのである。

 次の発言者は言う。「猛獣にとってのツメは、武器のひとつである。人間にあっても同じだ。我々が他人を傷つけ、その肉に深く食い込ませるために、ツメは伸びるのである」。この主張は先ほどよりも多くの出席者を納得させたものの、それは発言自体の説得力によるものというより、発言者の顔に刻まれた三本のみみずばれの功績が大きかった。発言者に昨夜何があったのかを聞くものはいなかった。

 次の発言者は言う。「ツメとは『時間』というものを可視化すべく伸びるのである。我々はこの手で『時間』をつかみとることはできない。だが、空間的存在である我々が時間的不連続体でないことを、ツメが日々伸びることによって確認することができる。それこそがツメの役割なのだ」。この発言は「何を屁理屈を言ってやがる」という罵倒の末に退けられた。

 次の発言者は言う……。

 と、こんな具合に会議は果てしなく続いていく。こうなっては、もう私には止められない。なんらかの結論めいたことがでてくるのを待つだけである。だが、議論の果てに建設的な結論がでてくることは皆無に近く、最終的にはくだらない疑問にふさわしく、くだらないシャレで会議が終わってしまうのが常である。「結局、あなたがた発言はツメが甘かったということで…」という感じに、うやむやのうちに終わるのである。どうせたいした結論がでないんだったら、はじめからこんな会議を開かなければいいのに、と会議が終わったあとにいつも思うのだが、失った時間は取り返しようもなく、私はツメを噛んで悔しがるしかないのだ。

 そうか、このためにツメは伸びるのか。




買いざまを見ろ
2000.11.20

 十一月も半ばをすぎて、冬物の服を買いにいってきた。相変わらず、洋服屋の店員はエネルギッシュでアグレッシブだ。店舗に入ったとたんに目をつけられる。こちらが目を合わせないようにしているにもかかわらず、すりよってきて「何をお探しでしょうか?」と尋ねてくる。そんなことは、私だって知らない。何を買うかしっかり決めて服を買いにくる人もいるのだろうけど、そんな人はそれほど多くはないはずだ。だいたい、私が「黄色の布にピンクの水玉が入っている、昇り竜の模様がはいった網タイツをください」といったら、それを出してこれるのか。出してこれないだろう。貴様は私が欲しいものを選ぶのをじっと見ていればいいのだ。

 「冬物をお探しですか?」
 当たり前だ。何を好きこのんで冬場に夏物を探さなければならないのだ。だいたい、店には冬物しか置いてないじゃないか。寂れた商店街の二十年前からいつでも同じ夏冬の服が吊るされているような洋服屋ならいざしらず、冬物しか置いていない店でそんなことを聞くんじゃない。肉屋が「肉をお探しですか?」と聞いてきたらおかしいと思うだろう。パン屋が「パンをお探しですか?」と聞いてきてもおかしいと思うだろう。カメラ屋で「『投稿写真』の今月号は置いてますか?」と尋ねた友人の北嶋の頭はおかしいと思うだろう。わかったら、口をつぐんでるんだ。

 「今年は少しゆとりのあるセーターなんかが、よく出てますよ」
 ああ、そうですか。それがどうしたっていうんだ。私にそれを着ろっていうのか。その、すきま風がよく入ってきそうなセーターを。その、そで口が妙に長いセーターを。それを着て私にどうしろっていうんだ。下着姿で、その大きめのセーターを着てベッドに寝そべれとでもいうのか。そして「恥ずかしい…」なんて頬を染めながら言えとでもいうのか。なんて破廉恥なやつだ。助平な野郎だ。お前はそんなことばかりを考えていて恥ずかしくないのか。

 「ブラウンのパンツなんかはお好きじゃないですか?」
 「ブラウンのパンツ」ってなんだよ。気取りやがって。「茶色いズボン」って言えないのか、お前は。それに、勝手に人の好みを当て推量するんじゃない。私のどこをどうみたら茶色のズボンが好きそうに見えるっていうんだ。たしかに茶色のコートを着て茶色のマフラーして茶色の靴を履いているけど、それはいつも着ている黒いコートがクリーニングから返ってこなくて、いつも巻いている紺のマフラーを電車に置き忘れて、いつも履いているグレーのスニーカーを裏口に取りに行くのが面倒だったからじゃないか。それぐらい、見てわからないのか。それでもプロか。それすらわからないで茶色いズボンを勧めるなんて百年早い。

 「このジャケットは襟のファーが簡単に取り外せるんですよ」
 「ファー」ってなんだよ。その気の抜けた音はなんだよ。男がそんなことを口にして恥ずかしくないのか。おととい栓を抜いたコーラでも、もうちょっと気合がはいってるぞ。男は「ファー」なんて口に出さないもんだ。ドレミソラシドだ。わかったか。それから、その「ファー」とやらをつけたりはずしたりするのはやめろ。楽しそうじゃないか。ホックがはずれる軽快な音を聞いていると、なんだか嬉しくなってくるじゃないか。やってみたくなんかないぞ。やってみたくなんかないんだからな。


 ……というようなことがあって、今日はゆったりセーターとブラウンのパンツとジャケット(ファー取り外し可能)を買いました。




秋の夜長に
2000.10.23

 秋の夜は長い。

 そのように言われているものの、実際に秋の夜が長いかどうかは、計ってみなければわからない。夜がはじまると同時にストップウォッチを押し、夜が終わると同時に止める。インチキがないように立会人を呼んでおいたほうがよいかもしれない。そうして正確な夜の長さを計り、夏や冬の夜の長さと比較してこそ、秋の夜が長いかどうかはわかるのだろう。

 ただ、このばあい問題になるのは、はたして「夜」というのはいつからはじまるのか、ということである。「夜」とひとくちに言っても、たとえば太陽が地平線に沈んだ瞬間から夜がはじまるのか、街灯に明かりがともったときから夜なのか、一番星が見えたときから夜なのか、いったいいつから「夜」ということができるのかは、素人には判断しにくい。ゆえに、正確に秋の夜の長さを測ろうと思ったら、夜判定協会に協力をしてもらう必要がある。

 夜判定協会というのは、その名のとおり「夜がいつからはじまるのか」という判定を専門にしている協会である。今が夜かどうか判断したいとき、たいていの人は夜判定協会に頼ることになる。「こんにちは」と言うべきか「こんばんは」と言うべきかわからなかったり、「夜のお菓子」をいつから食べたらいいのかわからなかったりするときは、夜判定協会に電話をすればよい。きちんと年会費さえ納めていれば、今は夜かどうかを教えてくれる。今回にように、厳密に夜の長さを計りたければ、専門家を派遣してもらってもいい。夜判定協会はあまり仕事がないそうなので、このような一大イベントになら喜んで来てくれるだろう。

 そういうわけで、今回は特別に夜判定協会の幹事長を呼んである。一般に幹事長といえば肩書きばかりで実力が伴っていないように思われがちだが、夜判定協会の幹事長は違う。先日ストックホルムで行われた「夜判定コンクール」で三位決定戦に負けたほどの実力を持っている。夜に対する感度については折り紙つきだ。ふつうの人であれば、なんとなく部屋が暗くなってきたときに、ようやく「夜だ」と思うぐらいだが、幹事長ともなればもっと早い段階で夜の気配を感じとる。夜を判断するのが得意な動物といえばフクロウだが、フクロウが夜を感じとると同時に、幹事長も感じちゃうのである。正直言って、素人にはいったいどうやって判定しているのはわからない。空気の流れとか、月の引力を六感で感じ取って夜を見きわめているらしいのだが、どうも嘘臭い。とはいえ、幹事長が言うからには「夜」なのである。

 さて、幹事長が夜を告げれば、いよいよ計測開始である。「もうすぐ夜が始まります……、五、四、三、二、一、ゼロ!」というカウントダウンと同時にストップウォッチをスタートさせる。立会人は、確かに不正が行われていないことを確認する。それに加えて、今回は故障に備えて精密機器メーカーのサービスマンも立ち会っている。万が一ストップウォッチに何らかの障害が発生しても対応できるよう、万全の構えをとっている。あとは、見守るだけである。ただ、集中して見守っていればよい。大きな音を立てると夜がおびえて逃げてしまうかもしれないので、じっとしているように幹事長から注意が飛ぶ。動くとほこりや振動で精密機器に微小な狂いが生じる恐れがあるので、できるだけ動かないようにサービスマンからも注意を受ける。立会人と幹事長とサービスマンとあなたは、ただひたすら時が刻まれていくようすを見ているしかない。はっきりいって、これはかなりイライラがつのる。実際にやってみればわかると思うが、夜の間ずっと時計を見ているのはかなりつらい。しかし、そこをこらえなければならない。だから、かなり精神の状態が安定しているときでもないと、この「夜の計測」をこなすのは難しいだろう。ただでさえイライラしているときにこんなことをしていたら、数分ごとに癇癪を起こして、切れた堪忍袋の緒が蘇生する暇もないほどだろう。

 そうやってストップウォッチを見守っているうちに、いよいよ夜が終わりそうになる。幹事長が「あと一分で夜が終わります」と言う。幹事長は夜を見守るという仕事があるからまだしも、立会人やサービスマンはただひたすらストップウォッチを眺めているだけなのだから退屈しきっている。ようやく終わるのか、という気持ちをありありと表情に出しながら、ストップウォッチを見つめつづける。いよいよ幹事長が秒読みを開始する。あなたはそっとストップウォッチを手にとる。「あと五秒、四、三、二、一、ゼロ!」。カウントダウンが終了すると同時に、ストップボタンを押す。ようやく終わった。幹事長が大きな拍手をする。サービスマンと立会人は抱き合って喜んでいる。三人とも重責を果たした充実感と開放感からほっとしているようだ。このような苦労を重ねて、はじめて夜の長さというのは測定できるのである。

 さて、いよいよあなたはストップウォッチの記録を確認する。なにしろ、このボタンを二度押すためだけに、一晩を費やしたのだ。そうして、ようやく手に入れた貴重な記録だ。あなたはストップウォッチに目を落とす。そして、愕然とする。ボタンを押し間違えてしまったのだ。あなたがストップボタンのつもりで押したのはライトをつけるボタンだ。明るくしてどうする。時計は止まることなく、相変わらず時を刻んでいる。おそるおそる三人のようすをうかがうと、もうパーティームードである。用意されていたシャンペングラスを片手に、この夜の苦労を語り、喜びを分かち合っている。そんな三人に、あなたは「ごめん。ボタン押し間違えちゃった」なんて言えたろうか。それだけはどうしても言えなかった。あなたはそっとストップウォッチをポケットに隠し、三人の歓談に加わった。ポケットの中では、まだ静かにストップウォッチが時を刻んでいる。

 夜はまだ続く。




チョキなしジャンケンのジレンマ
2000.10.20

 ジャンケンには無数のバリエーションがある。ジャンケン自体が「庄屋拳」や「虫拳」といった三すくみ拳のバリエーションの一つにすぎないとも言えるし、さらに地域や時代によってさまざまな付加要素が加わってくる。たとえば私が育った地域では「軍艦」「グリンピース・ドン」「ジャンケン・ブルドッグ」「ジャンケン・ビームショック」といった、新たなルールが付け加わったジャンケンがよく行われていた。他にも「野球拳」「あっち向いてほい」などはジャンケンのバリエーションのひとつとして数えていいかもしれない。ジャンケンのバリエーションというのは、考えれば考えるだけあって、しかもそれは次第に先鋭化する傾向がある。極端になれば福本伸行『カイジ』(講談社)に出てくる「限定ジャンケン」のように、自らの命さえも賭けてしまうジャンケンすらありうるのである。

 そんなさまざまなジャンケンのルールのなかでも、いま最も注目を浴びているのは「現実ジャンケン」である。ルールは名前から想像されるとおり。従来のジャンケンでは手の形によって「石」「ハサミ」「紙」をあらわしていたのだけれど、それを現実に置き換えてしまおうというものだ。すなわち、グーを出したいときは相手に石を投げつける。チョキを出したいときはハサミを投げつける。パーを出したいときは相手の頭上に紙ふぶきを散らすという、殺伐としたなかにも幸せな雰囲気のただようジャンケンとなっている。

 はっきりいって、このルールはハードである。たかがジャンケンではあるが、油断していると石やらハサミやらが飛んでくる。先日、大々的におこなわれた「世界現実ジャンケン大会」においても、参加者三百三十三名に対して生還者三名(うち二名は結婚)という凄惨な結果を残したことは、記憶に新しい。そんじょそこらのプレイヤーでは生き残れないのがこの「現実ジャンケン」というものなのである。

 ただ、このようなハードなルールのジャンケンですら飽き足らなくなるのが人間というもので、この「現実ジャンケン」のルールさえも凌駕するルールが存在する。それが「チョキなし現実ジャンケン」なのである。その名のとおり「現実ジャンケン」からチョキがなくなっただけなのであるが、これが熱い。ハサミが飛んでくる心配がなくなったんだから、ひとつ楽になったと思うのは大きな間違いで、実際にやってみれば、ふつうの「現実ジャンケン」よりもずっと恐ろしいのである。

 つまり、通常のジャンケンであるならば「チョキなしジャンケン」ではパーを出していれば、必ず勝つことができる。しかし、「現実ジャンケン」ルールで行われたときにかぎって、それは正しくない。石を投げつけるのと、紙ふぶきを散らすのと、どちらが強いかといえば、考えるまでもなく石なのである。ここに、このルールのおもしろさがある。石を投げつけることによって相手に致命傷を負わせて勝つか、紙ふぶきを散らすことによって「ジャンケン」に勝つか、その選択を迫られることになるのである。

 グーをだせば、ジャンケンには負けるかもしれないが、相手を倒すことができる可能性が高い。パーをだせば、少なくともジャンケンに負けることはないが、試合に勝って勝負に負けるという結果になりかねない。とはいえ、ジャンケン自体に勝とうと思えばパーを出すしかない。しかし、相手が自分をはなから倒す気で石を投げつけてきたら、対抗するすべはない。「チョキなし現実ジャンケン」をする者たちの間には、激しい読みあいが繰り広げられる。

 しかも、ふたりで「チョキなし現実ジャンケン」をしているときはまだましであって、これが三人以上になるともう収拾がつかない。それぞれのプレイヤーは四方から飛んでくる石に対処しつつ、試合に勝つか勝負に勝つかを選択しなければならないのだ。「現実ジャンケン」に挑むものは、日ごろから反射神経を鍛えておかなければならない。からだがよく動かない時期に「現実ジャンケン大会」など開催すると、結果はひどいことになる。特に冬場は、あぶない。




沈黙のメッセージ
2000.10.13

 発車五秒前。ドアはいまにも閉まりそうだ。階段を三段とばしで駆け下りているときに、足を踏み外してしまう。あっと思ったときにはもう遅い。バランスを立て直す間もなくしりもちをつき、三段とばしの勢いで、そのままデクのように階段をすべり落ちる。およそ五段ほどすべり落ちた後にからだは停止し、やっとの思いで立ち上がって痛む尻を押さえながらドアが閉まる寸前の電車に駆け込む。

 このような状況におちいったとき、いったいどのようにふるまえばいいのかということは、古来より多くの賢人たちにより考え尽くされてきた。いわく、「口笛を吹くとよい。そうすれば、その澄んだ音色が気まずい空気を和ませてしまうだろう」。いわく、「車内をぐるりとにらみわたせばよい。そうすれば、その威圧感があなたの恥ずかしいシーンを忘れ去らせるだろう」。いわく、「スキップをすればよい。そうすれば、その珍妙な行動がすぐ以前の滑稽なあなたを覆い隠すだろう」。賢人たちは、階段からすべり落ちた我々を救うべく、さまざまな解決策をあみ出してきた。

 とはいえ、別に賢人たちの知恵に頼るまでもない。たいていの人はちょっと照れ笑いを浮かべながら車内に乗り込んでくる。入ったときは車内からの注目を浴びることになるが、すみっこのほうでおとなしくしていれば、すぐに車内の空気は平常に戻る。気まずい空気があとあとまで残ることはない。電車から降りるころには、階段からすべり落ちたことなど全ての人が忘れてしまうだろう。

 しかし、賢人たちは「階段からすべり落ちた人間がどのようにふるまえばよいか」ということは教えてくれるが、「階段からすべり落ちた人間を見ていた人がどのようにふるまえばよいか」ということは教えてくれない。自然にふるまえばいいだろう、と言う人もいるだろう。私だって、昨日まではそう思っていた。しかし、すべり落ちた人間が何事もなかったように車内に乗り込んできて、よりにもよって私の隣に腰をおろしたとき、私はいったいどのような反応をすべきなのだろうか。

 そんなこと気にする必要なんてないんじゃないの、と思う人は同じ経験をしたことがない人だ。乗り込んできた人がてれ笑いのひとつもしてくれて、うつむきかげんにしてくれれば、こちらも救われる。相手が「ちょっと失敗しちゃった。エヘ」と思っていることがこちらに伝わるからだ。しかし、相手がそのような「気まずさ解消行動」をとらなかった場合、どうも妙な気分なのである。なぜこの人はこんなに堂々としていられるんだろうか。なんだか得体の知れない人物だという印象を受ける。ひょっとしたら苦痛をこらえていたりするのだろうか、という推測をしてみるが、それをじっくり観察するのも趣味が悪い。かくして、うっかりその人のほうに顔を向けられない。首がこり固まったようになってしまうのである。単に、階段からすべり落ちた人がとなりに座っただけなのに、すごいプレッシャーだ。このようなとき、私はどうすればよいのだろうか。

 「大丈夫ですか」と声をかけるのはどうか。「だいぶ尻を打ったみたいですけど、よかったらさすりましょうか」と親切で言ってみるのはどうだろう。相手は受け入れてくれるだろうか。そこから「ええ、大丈夫です。優しいんですのね」なんて和やかな雰囲気が流れるかもしれない。ただ、惜しむらくはとなりに座っているのは脂ぎったオッサンだ。オッサンの尻をさするのは嫌だ。

 「どうです、今の心境は」と聞いてみるのはどうか。そうすれば、「ええ、五段は新記録でした」なんて思わぬ話を聞くことができるかもしれない。それどころか「よかったら、明日の朝はごいっしょしませんか」なんて友情が深まるかもしれない。ただ、惜しむらくはとなりに座っているのは脂ぎったオッサンだ。オッサンとそろって階段をすべり落ちるのはごめんだ。オッサンとじゃなくたってごめんだ。

 「いやあ、あそこは危ないですよね。僕も先日すべったばかりで」なんて気さくに話し掛けるのはどうか。「あれじゃあ誰だってすべっちゃいますよ。あはは」と乾いた笑いをたててみるのはどうか。いや、ダメだ。「バッカじゃない」なんて軽蔑の目で見られたりしたら、立ち直れない。

 結局、言うべきことは何もないのだろうか。なぜ私がこんなことで悩まなければならないのか。こいつが慣例通り、てれ笑いをしてうつむいていれば、無駄に頭をつかう必要もないのに。そんなことを思いながらちらと隣を見たら、ばっちりと目が合ってしまった。私は、ちょっとてれ笑いをしてうつむいた。




レッドルーム
2000.09.29

 どうしてなのかわからないのだけれど、風呂に入っていると何の脈絡もなく鼻血がでることがある。ふだんは鼻血なんてめったに出さない。たぶん、ここ五年ぐらいは風呂場以外で鼻血をだしたことはないと思う。だけど、風呂に入っているときに限って鼻血がでる。

 そういうときは、それなりに困る。別に流しっぱなしでもよいのだけれど、床に赤い水滴が広がるのを見るのはあまり気持ちのよいことではない。鼻血を出したときに最も良い対策は小さく丸めたティッシュを鼻に詰めることだけれど、ふつうは風呂場にティッシュなんてない。ということは、ふつうじゃなければ風呂場にティッシュが置かれているということだ。ふつうの風呂場か、万全の鼻血対策がなされている風呂場、どちらがよいだろうか。そういうことを悩んでいるうちにも、鼻血はボタボタと床に広がる。

 しょうがないので、タオルでおさえて鼻血が広がるのをとりあえず防ぐ。だけど、根本的解決にはなっていない。タオルごときでは鼻血は止まらないし、手を離したらまた流血の惨事が起こる。いっそ風呂から上がってしまおうかと思うが、それでは鼻血ごときに負けたようで悔いがのこる。風呂場の鼻血は風呂場でかたをつける。それが鼻血の美学というものだ。鼻から血を流しながら美学もなにもないもんだ。

 ティッシュ詰めが使えない以上、私にできるのはあの民間療法しかない。すなわち、頭を反らし手刀で首の後ろを打つ、というやつだ。あれに「気やすめ」以上の効果があるのかどうかは知らない。ひょっとしたら医学的な根拠があるのかもしれないし、あるいは風邪をひいたら鼻にニンニクを詰めるとか、そういうレベルの行為なのかもしれない。どちらにしろ、私にできるのはそれぐらいしかないので、とりあえず首筋を打つ。おかげで、肩こりがとれる。

 肩こりがとれて、鼻血も止まるかといえば、そんなことはない。むしろ血行がよくなって、鼻血も勢いよくなりそうな気がする。とりあえず、私にできることはすべてやったので、あきらめて風呂場からでることにする。鼻血の美学とやらはどこにいったんだろう。いや、そもそも美学なんてなかったのかもしれない。しょせん俺には美学なんてないのさ。俺は世の中のくずだ。美学なんて似合いやしない。泥にまみれて、地べたでもがいているのがお似合いだ。と、アウトローな男を気取ってみたりするけれど、風呂上りのつやつやした顔からは、やっぱり鼻血がたれている。

 結局、風呂からあがってティッシュをとりにいく。脱衣場にティッシュはおいていないから、台所まで取りにいかなければならない。当然、からだを拭くことも服を着ることも鼻血のせいでままならず、ブラブラとさせながら台所まで行く。この姿を誰かに見られたら言い訳はきかない。裸でブラブラさせているだけならまだしも、鼻血までだしているのだ。どこを隠していいのかわからない。だから、風呂場で鼻血をだすのは嫌だ。

 とまあ、そういう経緯を経て、ようやく鼻血は止まる。そこではじめて、「なぜ風呂場に限って鼻血がでるのだろう」という疑問を考察する余裕がでてくる。だが、鼻にティッシュを詰めたままでは説得力のある論を展開できそうもない。




エレメンタルアンケート
2000.09.26

より良い明日のために、アンケートにご協力お願いします。

●あなたの性別を教えてください。
女性 それ以外

●あなたの年齢を教えてください。
十代 二十代 三十代前半       それ以外

●あなたの性格を教えてください。
加虐的 被虐的 自虐的

●スライムがあらわれた。
たたかう にげる

●あなたは日本語の文章を読めますか。
はい いいえ

●あなたは日本語とは思えない文章を読めますか。
〓仝ヾ 〆‥∞

●どんなときに嬉しいですか。
突然の雨降りに傘を持っていたとき
傘を忘れた美女に「これをどうぞ」とさしだしたとき
さしだしたのが実はバナナだったとき

●どんなときに悲しいですか。
突然の雨降りに傘を忘れたとき
傘を持った美女が無視して通り過ぎたとき
くやしまぎれにバナナをさしだしたとき

●このサイトの印象を教えてください。
良い

●このサイトの管理人に現金をあげたいですか。
はい いいえ

●でも、そんなのもらっちゃ悪いですよ。
まあ、そう遠慮なさらずに。
あ、そうですか。じゃ、やめます。

●それじゃあ、遠慮なくいただきます。
うれしい…。
はい、あーげた(現金を高くかかげて)。


どこにも送信できませんが、ご協力ありがとうございました。




ハングドマン
2000.09.23

少年という時代は、初めて靴ひもを結んだときはじまり、初めてネクタイを結んだとき終わる。

アルカヤ・プリテンダー(1889-1934)


 もちろん、そう思わない人は大勢いるだろう。初めて靴ひもやネクタイを結ぶ時期は人によってバラバラである。最近は小学生でもネクタイをしているのがいるし、いい歳をしたおっさんがマジックテープ式の靴を履いている場合だってある。ただ、何となくわかるような気もする。

 初めて靴ひもを結んだのは、おそらく幼稚園に入ったころだろうが、正確なことは覚えていない。そのころのことは、あまり記憶が無い。幼稚園時代で覚えていることといったら、幼稚園に通っていたということぐらいである。しかし、初めてネクタイを結んだ日のことは覚えている。

 高校最後の春休みに、私ははじめてスーツというものを買いにいった。そういうときはなんだか自分が大人になったような気がしてうれしいものである。わりとふところも暖かかったので、「よし、ビシッとしたスーツを一丁したててやろうか。これでおいらも紳士の仲間入りだな」と意気揚揚と店に入ったのであった。

 店に入って愕然とした。スーツというものがあんなに高いものだとは知らなかった。たぶん一万円でおつりが返ってくるぐらいの値段だろうと思っていた。ところが、吊るされてある値札を見ると、かるく数万円はする。スーツを三着ぐらい買えるお金を持っていったはずなのに、一着買えるかどうかもあやしいところだ。あまりの値段におもわず「(えっ!)」と心の中でつぶやいた私を、店員は冷ややかな目で眺めていた。「どうなさいますか?」という店員の問いに、自分の気持ちが急にしぼんでいくのを感じた。しかし、こんな店員になめられるわけにはいかない。私は英国紳士らしく、つとめて冷静な声で「うむ。これをくれたまえ」と言った。

 すると、店員は重ねるように「ネクタイはどうなさいますか?」と聞いてくる。なぜか、私がネクタイ一本持っていないスーツ初心者だということが見破られてしまったらしい。さっき声が裏返っていたのが悪かったのかもしれない。そこで私はネクタイも見せてもらい、布キレを細長くしただけのものが、数千円もすることを知り、ふたたび愕然とした。店で一番安いネクタイは二千円で、今思えばテカテカでペラペラのいかにも質の悪いネクタイであったが、そんなことに気を回す余裕もなく無念の涙をこらえながらネクタイも買った。

 家に帰り、袋の封を破る。中から現われたテカペラのネクタイを取り出して、はたと困った。さて、ネクタイというのはどうやって締めるのだろう。そういえば、だれかに教わった記憶がない。

 こういうとき、父上や母上には頼りたくない年頃である。かといって、ネクタイ締めに熟練している友人の顔は思い浮かばない。本棚をざっと眺めたが「ネクタイの締めかた」という本はないようだ。柔道の教則本を読んでも首の締めかたしか載っていないし、ベッドの下にあった本を読んでも縄で肉体を縛る方法が載っているばかりである。

 困った困ったと困りながら、まあ色々試しているうちにできるだろう、と鏡を前にネクタイを首に巻きつけた。ここをこうして、これを持ってきて、とやっているうちに、それなりに型が整ってくる。あれこれいじっているうちに、それらしくなった。「できた!」と思ったときは、二時間ほど過ぎていた(「やっぱり間違ってた!」と気づいたときは、二年が過ぎていた)。すっかり暗くなった部屋の鏡の前で、さりげなくポーズを決めてみる。斜めに構えてモデル立ちをしてみたり、伏し目で鏡を眺めたり、なかなかいい感じだ。そこには、夕闇の中「格好いいぜっ、オレ」と鏡に向かってつぶやく私がいた。

 初めてネクタイ結ぶとき、少年は青年になる。むろん、青年とは「青くなるほど恥ずかしい年頃」の略である。




本をみてもひとり
2000.09.13

 基本的に、書店とはひとりでおとずれる場所だと思っている。友人と連れ立って歩いていて、たまたまいっしょに書店にはいったときは、わけもなく緊張する。「書店とは鍵のかからないトイレのようなものだ」と言った人がいたが、まさにそんな気持ちだ。用を足しているところを見られたくないように、あまり本を選んでいる姿は見られたくないように思う。

 この緊張感は、いっしょに書店の通路を歩いていたりすると倍増する。自分がいったいどんな本に目をはしらせているのか監視されているいるようで、落ちつかない。どうしても神経にこたえるので「頼むから、すぐ近くを歩くのはやめてくれ。いっしょに歩くのなら、三歩あとからついてきてくれ」と頼んだりする。了承した友人が、三歩あとをずっとついてきたりすると余計に緊張するので、やめておいたほうがよい。

 本を選んだり買ったりするときは、さらに緊張する。もし自分が選んだ本がどうでもいい本であれば「こいつ、こんなどうでもいい本を買ってやがる」と思われ、どうでもよくない本ならば「こいつ、こんなどうでもよくない本を買ってやがる」と思われるのではないかという被害妄想を持ってしまう。そのせいで、なかなか満足のいく買い物をすることができない。家に帰ったあと「なぜ私はこんな低俗な本を買ってしまったのだろう」と激しく後悔しながら読みふけってしまうことも多い。

 もちろん、たまには友人がいっしょにいたほうがよいときもある。たとえば、大きな書店ではよく英会話教室の勧誘がなされているときがある。私は、あれが大嫌いだ。「英会話に興味がありませんか」とか「よろしかったら、ご説明させていただけませんか」とか、ふらふらと通路を歩いている私に声をかけてくる。自分の世界に入り込んでいるときに、見知らぬ人に突然声をかけられるとうろたえてしまう。うろたえたときの条件反射で「ア…アイキャントスピークイングリッシュ!」などと口走ってしまうと、もう相手の思うつぼだ。まるきり興味のない英会話教室の解説を長々と聞くことになってしまう。

 しかも、どうせそんなものは断るに決まっているのである。せっかく長々と説明をしてくれた綺麗なおねえさんに「あの…きょうみないですから」と言って去っていくのは、どうもおねえさんに悪いような気がしてしかたがない。人様に迷惑をかけるなんて申し訳ない、という気持ちでいっぱいになりながら、その場を去ることになるのである。私は人に迷惑をかけるのが嫌いだ。そういうとき、もしここに友人がいてくれたら、と思う。そうしたら、おねえさんに声をかけられたときも友人を指差して「あ、彼は英会話に興味があるそうですよ」と言い、私はさっさとその場を去ることができるのである。

 とはいえ、そういう状況でもないかぎり、やはり書店はひとりでまわるのが良い。そのほうが、満ち足りた買い物ができる。だから、どうしてもという状況(ふたりがかりでないと運べない本を買いたい、対戦型の書店である、など)でもなければ、書店にはひとりではいることにしている。




つ-な-が-る
2000.09.11

 以前から立体音響装置の調子がわるかった。CDの音が突然とぎれたり、ボタンが押せなくなったりしていた。それでも、我慢しながらつかっていた。CDがとぎれたときは自分で歌ってごまかせばよいし、ボタンは強引に押せばすんなりと反応する。それほど音にこだわる生活をしているわけでもないので、それなりに装置が機能していればそれでよい、と思っていた。大事に使っていれば、あと一年ぐらいは持つだろうし、ささいなことでわざわざ新しい装置を買うのはもったいない。人間には我慢がだいじなのである。ある日、いつものとおりCDトレイを押し込んだら、関係ないボタンがぴょこんと飛び出した。それが私の我慢の限界を超えた。

 新しい立体音響装置に買いかえてあらためて思ったのだが、配線は難しい。こういう機会でもないと自分がいかに配線に弱いのか気づかない。装置にはテレビやビデオ、DVD、ゲーム機などをつなぐ必要がある。この膨大なコード類をいったいどのようにつなげば、以前と同じ環境を取り戻せるのだろうか。装置の置かれた棚の裏にもぐりこんでコードをはずしたりつなげたり、いじくっていた。なかなかややこしい。ややこしいのだが、意外と楽しい。なんだかパズルを解いているような楽しさがある。これはここにつないで、あれはそこにつないで、とやっているうちに、次第にもとの環境に戻っていく。ちゃんと機械が動く。まるで自分が一流の技術者になったような気分になれる。実際には、ただコードをコード穴にいれただけなのに、何を浮かれているんだろう。

 配線をややこしくしているのは、コードの色だ。コードの色というものは、たくさん例外があるものの、おおむね黒である。コードの見分けがつかないために、「これだ!」と思ってつかんだコードがまるで別のコードだったりする。そういう意外性を楽しむことができる。コードの先が赤・白・黄にわかれているようなものもあるが、あれはあまりおもしろくない。たとえば、あなたの好きなショートケーキとチーズケーキと女体盛りが食卓に並んでいたとして、「どれにしようかな」と悩むのはとても楽しいことだと思う。あの三色コードには、そういう楽しみがないのだな、と思う。

 もうひとつ、配線を難しくしているのは、自分の腕だ。私の腕は、ひじと手首の二箇所しか曲がらない。しかも、曲がる方向が決まっている。しかもしかも、腕は二本しかない。だから、スチール棚の裏のような狭い空間ではあまり活躍できない。ゆえに、奥まった場所にコードをつなぐときには、からだにどんな無理な体勢をとらせるかという判断力が必要とされる。あまりに無理な体勢をとってしまうと、狭い空間からからだが抜けなくなってしまう危険性もある。そんなことでレスキュー隊は呼びたくないものだ。たぶん、レスキュー隊の人もそう思っている。そこにスリルがある。それにしても、もし私に腕が八本ぐらいあって、関節が自由に曲がるのなら、このややこしい配線は、さぞかし簡単になったことだろう。やはり、コード類にタコ足はつきもののようである。




うちのママが言うことには
2000.09.08

 よく階段から落ちる子だったという。子どもというのは階段から落ちるのが仕事だといわれているけれども、それにしてもよく落ちる子だったという。自分で動けるようになって、まずは階段から転げ落ちることをおぼえたらしい。はじめて階段から転げ落ちるのを見たときは腰が抜けそうになったそうだ。二度目に転げ落ちたときは血の気がひいたそうだ。三度目に転げ落ちたとき茶の間で見ていた「笑っていいとも」はおもしろかったそうだ。母上はそう語る。

 中途半端なことが嫌いな子だったという。階段から転げ落ちるときは、必ず最上段まで上ってから落ちていったそうだ。うちの階段は十三段あったことをおぼえている。その途中の七段目や八段目から落ちることはまずなかったという。きっちり十三段目に足をかけてからバランスをくずしていたという。「いっそ、十三段目を取っ払っちゃおうかと思ったわ」と母上は笑いながら語った。突然十三段目がなくなってたら、余計にバランスをくずしそうな気がするんですが、母さん。

 とても素直な子だったという。あまりに階段から転げ落ちるので、母上は私に「後ろをむいて、手をついてから階段を降りなさい」と言ったらしい。私はそれを忠実にまもり、二十センチぐらいの高さのふみ台でも、きちんと手をついてから降りていたらしい。ちいさなふみ台すらも慎重に降りようとする姿は、たいそう可愛らしくて、母上は一生これを続けさせようと思っていたらしい。その野望が続いたのは、私が階段に手をつき後ろ向きに上ろうとして転げ落ちるまでだったという。

 いつでもたんこぶのある子だったという。階段から転げ落ちても、骨を折ったり、切り傷をつくったりすることはなかったという。ただ、最後にいつも頭をぶつけてたんこぶをつくっていたという。たんこぶができたうえに、またたんこぶができたりすることもあったそうだ。「そのときあんたの身長を計ってみたら、一センチぐらい伸びてたわよ」と母上は笑いながら語る。笑いごとじゃないような気がするんですが、母さん。

 無口な子だったという。転げ落ちても泣いたりすることは少なかったという。叫び声も上げずに転げ落ちていったそうだ。声を立てずに階段を転げ落ちていくさまは、まるで深い覚悟と諦念を持った殉教者のようで、そのまま天の高いところに行ってしまうのではないかとドキドキしたという。転げ落ちたあと、声も立てずにむくりと起き上がるさまは、まるでさびれた墓場の底からよみがえる死体のようでドキドキしたという。

 そういう子供だったという。ひさしぶりに階段から転げ落ちた私を見て、母上は言った。




しりとり入門
2000.09.05

ルール
●しりとりは語彙力を競うためのゲームです。あなたが好きな単語を告げると、相手はその単語の最後の文字からはじまる単語を口にします。次に、あなたは相手が口にした単語の最後の文字からはじまる単語を相手に告げます。これを永遠に繰り返します。
例1)「野外露出」→「つばさ」→「三角木馬」→「ばけつ」→「吊るし責め」→「めだか」→「浣腸器」
●最後が「ン」で終わる単語を言った時点で、その人の負けとなります。
例2)「パン」「ペンギン」「特殊相対性理論」など。
●一ゲームで同じ単語を二回使うことはできません。
●普通名詞以外の単語(形容詞・固有名詞・絶叫など)を使うことはできません。

テクニック
●しりとりの初歩的なテクニックとして「リ責め」と呼ばれる攻撃方法があります。これは、ひたすら「リ」で終わる単語を相手にぶつけて、相手の語彙が尽きるのを待つという作戦です(「リ」で終わる単語は非常に多いです)。
例3)「しりと」→「リンゴ」→「ごます」→「リンス」→「すなず」→「リキッド」→「どんぐ」→「リーチ」→「ちど

●これに対する防御法として「リ返し」というものが考案されています。相手の「リ責め」を誘っておき、「リ」ではじまる単語が少なくなってきたところを見計らって「料理」「リハビリ」「倫理」といった「リ」ではじまり「リ」で終わる単語で切り返すという作戦です。相手は自分がしかけたわなに自分でひっかかってしまうわけです。ふふふ。

●その他の初歩テクニックとして「一文字返し」というものがあります。これは「胃」や「蚊」といった一文字の単語を言うことによって相手の番に返すというテクニックです。相手が必死に単語を考えてやっと口にした一秒後にこれをすると、相手にかなりの精神的ダメージを与えることができます。

●中級テクニックとしては「ン誘い」というものがあります。これは、相手が次の単語に悩んでいる際に、さりげなく相手から「ン」で終わる単語をひきだすという作戦です。たとえば、あいてが「ラ」ではじまる単語に悩んでいれば、「ほら、百獣の王といえば…」などとさりげないヒントのふりをして次に言う単語を指し示します。このとき、相手が警戒しないように優しい目をします。相手がひっかかって「ライオン!」と言ったら、ここぞとばかりに相手を馬鹿にします。嫌われます。

●自分の得意分野に相手を引きずり込むというのも有効な手段です。たとえば、あなたが下着マニアなら、ゲームを開始する前に「下着のブランドしか言ったらダメだから」と勝手にルールをつくります。相手が拒否をしたら「逃げるのか、卑怯者!」と言います。あなたのほうが卑怯です。作戦に成功すれば、かなりの確率で勝利を得ることができます。嫌われます。

●相手が子供や信じ込みやすい性格の持ち主なら、勝手に適当な単語をつくることも有効です。たとえば「パ」で始まる単語がどうしてもでてこないときは、「パピーチョ!」などと適当な単語を言ってしまいます。相手が説明を求めてきたら適当に説明してください。相手は信じ込みやすいので、まず見破られません。ただ、執念深い性格の子供にこれをやると、いつまでたってもその単語を覚えているので閉口します。母さん、「パピーチョ」って何ですか?

アドバイス
●以上のテクニックを駆使すれば、おそらくあなたに勝利が訪れます。それでも勝てないというかたは、相手が悪いのではないかと思われます。どうしても勝ちたいときは犬を相手にすると良いでしょう。相手は「ワン」としかいえないので、たぶん勝つことができます。ただし、はじめに「ン」で終わる単語を言ってしまうと負けます。
●犬にも勝てない場合は、いきなり相手になぐりかかったほうがいいです。




大海の木片
2000.09.03

 電車が発進したり停車したり、あるいは横にゆれたりすると、乗っている人のからだもゆれ動く。まだ電車に慣れていないときは、あっちやこっちにこけそうになるのだけれど、慣れてしまえば足をふんばる必要もなくなる。なんとなく電車の動きを読むことができたり、重心の移動のさせかたがうまくなったりして、無駄に力を入れる必要がなくなるのである。考えてみれば、これはけっこうすごいことなんじゃないかと思う。

 今日乗った電車はそこそこ込んでいて、座席はほぼ満員。通路にも十数人の人が立っているという状態だった。私は座席に座ることができたのだけれど、ちょっと離れたところに、おそらく帰宅途中だと思われる小学校低学年ぐらいの少女が立っていた。その子がすごく足をふんばっているのである。見るともなしに見ていたのだけれど、やっぱり電車に立つだけのことでもうまいへたがあるみたいだ。

 その子が立っていたのはちょうど通路のまんなかあたりで、つかまるものがないところだ。電車がゆれるたびに右往左往している。足は進行方向に対してふんばっているので、やはり横のゆれに弱いみたいだ。電車がカーブに差しかかると、足がぷるぷると震えている。急カーブにはいるともう耐え切れなくなるようで、手をばたばたさせてつかまるところを探すのだけど、まわりにつかまるところはない。つり革は高すぎるし、手の届く範囲にポールは無い。つかまるところをさがしたあげく、とっさに自分のおさげをつかんだりして、非常に可愛らしい。

 しばらく見ていると、足元で少女がばたばたしているのに気づいた一見しまうまふうのサラリーマンがすっと場所を変わってあげて、少女はぶじポールにつかまることができた。もうちょっとじたばたしているところを見ていたかったので、もったいないような気がしたのだけれど、そうでもなかった。ポールにつかまっても、やっぱり立つのがへたなものはへただ。カーブのたびに、少女はポールを中心にぐるんぐるんと翻弄されている。楽しんでいるようにも見えるんだけど、表情を見るとそうでもないらしい。ふと気づくと、私のとなりに座っている男性もおもしろそうに少女を見つめている。正面に座っている女性もおもしろそうに少女を見つめている。やはり、みんな少女が気になるようだ。

 なんとなく少女は車内の注目を集めてしまっているのだけれど、少女自身はそれに気づいていない。ポールを両手でしっかり握ってからだを安定させたとたん駅がやってきて、しだいに増えてくる人の波に翻弄されてしまったりしている。なんだか、洗濯機でおぼれそうになっている仔犬を見ている気分だ。助けてあげたいような気もするんだけれど、ついおもしろくてじっと見守ってしまう。ひとりなんだし、誰か席を替わってあげれば解決するようなことなんだけど、誰も替わらないところを見ると、みんなそういう気分なんだろう。

 そういうわけで、何駅かのあいだ見守っていたのだけれど、やがて少女の目的地がやってきたようだ。少女も電車のしくみというものがかなりわかってきたようで、停車にそなえて足をふんばっている。最後に何かやってくれるかな、と思ったのだけれど、そういうサービス精神はないようで、電車も少女もぶじに停車した。まわりにそびえる人波をかきわけて、ドアが閉まりかける寸前になんとか少女はホームにおりた。やれやれ、という雰囲気が電車内に満ちる。おそらく、少女はこれからしだいに電車に慣れていくのだろう。脚力や握力がつき、電車用三半規管が発達して、きっといずれは通勤サラリーマンように不動の姿勢を保てるようになるのだろう。ちょっと寂しいような気もするが、それが成長というものだ。がんばれ、見知らぬ少女。

 それはそうと、あのドアに挟まっている給食袋はいったい誰のものなんだろうか。




照れる目薬
2000.08.28

 目薬の名称というのは「恥ずかしかっこいい」ものが多い。私が愛用しているのは「サンテFXネオ」という目薬なのだけれど、たかが目薬にしてはなんだか大げさな名称である。なにしろ「FX」で「ネオ」なのである。知らない人が聞いたらスポーツカーの名前かと思うほどかっこいい名前だと思う。他にも「アイリス・ビューティーS」とか「ベルロビン目薬」とか、目薬には「恥ずかしかっこいい」名称が多い。私は目薬メーカー全般に見られる、こういうセンスが好きである。

 また、私は目薬を買うのがわりと好きである。私がよく行く薬局では目薬をレジの後ろに並べているので、欲しいときは「○○ください」と言わなければならない。たとえば、ぢの薬や水虫の薬なんかを買うのは単に「恥ずかしい」だけだから、全然楽しくない。だけど、目薬というのは「恥ずかしい」と「かっこいい」のちょうど微妙な線上にあると、私は思う。その微妙な線上にある商品をちょっと照れながら買うのは楽しい。

 この気持ちがよく分からないという人は、たとえばトラックにひかれそうな仔犬を想像してみると良いのではないかと思う。「あぶないっ!」と思ってあなたは道路に飛び出す。目前に迫るトラックの前を横っ飛びして、あなたは仔犬をすくいあげる。間一髪、あなたはトラックの前を飛びぬける。すぐ横を轟音を立ててトラックが通り過ぎてゆく。「よかったな、もう道路にでたりしちゃだめだぞ」「わん!」などと仔犬につぶやくあなた。かげからそれを見守る少女がひとり。「○○くんってやさしいんだ…」。少女はぽっと頬を染めるのであった。

 想像してみただろうか。なんだかこのようなことを想像していると、なんだか「恥ずかしかっこいい」気分になってこないだろうか。たぶんならないと思うのだけれど、ひょっとしたら全国で二十三人ぐらいにはこの気持ちをわかってもらえるんじゃないかと思って書いてみた。そういう「恥ずかしかっこいい」気分を手軽に味わうことができるツールとして、目薬は最適なわけである。薬局に行って「○○ください」というだけで、「恥ずかしかっこいい」気持ちを味わうことができる。そういうわけで、私はしょっちゅう目薬を買いにいってしまうのである。

 ところが、そういう心の機微を求めて私は薬局へ行くのだが、残念なことに薬局の店員さんというのはそのような機微が分かっていないひとが多い。薬局の店員さんというのは、いってみれば薬のプロばかりである。そして、プロというのはたいていが「仕事」のフィルターを通して目薬を見ているために、どんな「恥ずかしかっこいい」名前ですらただの商品名にすぎず、私の目薬の名前にすら照れる乙女心(比喩)がわかってもらえないのである。

「あの…、サンテむにゃむにゃください」
「えっ? なんですかっ?」

なんて傍若無人に聞き返してくる。きっと彼らだって汚れをしらない年頃のときは「サンテFXネオ」という名前にぽっと頬を染めたはずなのに、それを忘れてしまっているのである。これは、ぜひともなんとかしなければならないことのひとつだと思う。ついでに、そんなことで「恥ずかしかっこよ」がっている私の精神構造も、なんとかしなければならないことのひとつだと思う。




家路サーキット
2000.08.24

 人には思いがけず戦わねばならないときがある。

 帰宅するため夜道を急いでいると、私の前をちょっとくたびれた感じの男性が歩いていた。きっと仕事帰りなのだろう。今日もなんとか働いた、明日も一日働かなきゃいけないのか、という風情で街灯に照らされながら歩いている。時刻は夜の十時。この時間にこのあたりを歩いている人はほとんどいない。

 男性の歩みはそれほど速くない。ひょっとしたら、あまり家に帰りたくない気分なのかもしれない。一歩一歩を確かめるように、ゆっくりと歩いている。一方で、私は元気よくとまではいえないものの、それなりに快調に歩いている。最初は三十メートルほどあった差もすぐに縮まった。道路の幅はおよそ三メートル。私は男性の一メートルほど左に並んだ。

 そのまま一気に抜き去ってしまおうと、私は少しばかり歩調を速めた。ほんの数秒後には、男性は私の右後方に抜き去られているはずである。私は両足を素早く交錯させ、男性を抜き去る瞬間、横目でちらりと男性の様子を見た。ところが数秒後に私の後方にいるはずだった男性は、まだ私のぴたり右横にいるのである。すぐに私は「こいつは…負けず嫌いだな!」ということを察知した。男性は私に抜かれまいと自らの歩調を速めていたのである。男性はまるで私のことなど気にしていないふりをしているが、明らかに歩調が速まっている。私と男のデッドヒートが始まった。

Ψ

 私は歩調をおとさないようにしながら男をさりげなく観察した。むろん、相手のことを意識しているとは思われたくないので、あからさまに顔を向けたりはしない。男は一見サラリーマン風、その正体はおそらくサラリーマンだろう。こちらのことなどみじんも気にしていない様子で、足早に歩いている。今のところ、歩調のペースは全くの互角だ。

Ψ

 数秒間ほど男と私は並んで歩いていた。しかし、男は唐突に歩調ペースを変化させた。おそらく、このレースの当事者にしか分からないような微妙なペースチェンジである。それまでは一分間に120歩ぐらいのペースだったのが、122歩ぐらいのペースに変わった。小さなペースチェンジであるが、不意をつかれた私はやや遅れをとった。

 しかし、私だって負けてはいない。こんな疲れたサラリーマン風情には負けられない。さりげなく歩調を速める。このとき、決してとなりの男を意識しているそぶりを見せてはいけない。おそらくはこのレースが始まった瞬間からお互い意識をしているのはバレバレなのであるが、それでも平然とした顔で歩かなければならない。

 ペースを上げたにも関わらず私がぴたり横にくっついているのを見て、男はさらにペースアップを図ろうとした。今度は、およそ一分間に125歩のペースである。しかし、今度は私もそれを読んでいた。男がしかけてくるタイミングにあわせて私もペースを上げる。しかも、そのスピードは分速128歩だ。男よりも3歩分速い。ここが微妙な駆け引きである。ここで男は私に合わせてさらにペースを上げることもできる。しかし、男はたった今ペースを速めたばかりだ。数秒もしないうちにペースを上げてしまえば、私を意識していることがバレてしまう。この勝負はあくまでさりげなく勝利しなければならないのである。読み合いに勝った私は男よりも数十センチばかりのリードを奪った。

 しかし、そのリードもつかの間のものである。現在のところは前方にいる私のほうが確かに有利だが、後方にいる男はしばらくしてからもう一度ペースを上げてくるだろう。ここで男が一気に分速134歩ぐらいまでペースを上げれば、おそらく私はあっというまに抜き去られてしまうだろう。そのとき男に追いつくために歩調を速めるのは、まるであわてているようで好ましくない。あくまで「さりげなく」だ。したがって、私は後方の男がいつ仕掛けてくるのかを正確に察知しなければならない。そして、男が仕掛けてきたタイミングをぴったりと読み、それに合わせてペースを上げ、このリードを保たなければならないのである。

Ψ

 しばらくは、息をひそめて相手の動向を待った。こういうときは、追われる側のほうが不利である。相手は私の姿を確認することができるが、私には相手の姿が見えない。それだけ相手の呼吸を読むのが難しい。振り向けば容易にその姿を確認することができるが、そうした時点で私の負けだろう。この競争にムキになっていると思われたら、たとえ先に私がゴールしたとしても、きっと男は余裕の表情で精神的勝利をおさめるに違いない。

 そうして、十数秒ほど均衡状態が続いた。私は静かに男の呼吸を読む。しかし、男はなかなか動きを見せない。先ほど開いた差を埋めようとせず、むしろその差を保つように私についてくる。いったい、どこで仕掛けてくるのか。いっそのこと、私のほうからペースを上げてやろうか。しかし、現在の歩調は明らかに通常のスピードを越えている。ここでさらにペースを上げれば、相手を意識していると思われるかもしれない。

 そのまま数十メートルも歩いただろうか。突然、私の左側にある家から犬のほえ声がした。そういえば、この家の犬は通りかかる人にいつも吠えかかる。レースに集中していた私は、突然の吠え声に思わずそちらを見た。勝負の最中に隙を見せるのは致命的だ。おそらく、男はその犬の吠え声を予想していたのだろう。男は私が意識をそらした瞬間にペースを上げていた。私が前方に向き直ったとき、男はすでに私に追いつき、追い越そうとしていた。しまった! 相手はプロだ。そう後悔してももう遅い。私が復調したとき、男はすでに私より一メートルほど先を歩いていたのである。

 この局面に入って一メートルの差をつけられたのは痛恨のミスである。おそらく、この差を埋めるためにはかなり無理をしなければならないだろう。しかも、男に無理をしていることをさとられないよう、さりげなくである。さりげなく無理をする、という言葉自体に矛盾がありそうだ。おそらく、この差はそうそう縮まるまい。男の背中を見ながら、私はレースに敗れ去ろうとしているのを感じた。

Ψ

 しかし、勝負はまだ終わっていなかった。私が勝負あきらめかけたそのとき、私たちの姿がライトに照らし出された。後方から自動車がやってきたのである。自動車を通すために、男は道路の右側に、私は道路の左側によける。自動車が私たちの間を通り抜けようとした瞬間、私はペースを上げた。幸いにして、相手の視線から、私の足元はさえぎられている。私は全く表情を変えないまま、足だけを猛烈に前後させた。そして、車が我々の間を走り抜けた一秒に満たない時間で私は逆転していたのである。この僥倖によって、私が得たリードはほんの数十センチにすぎないだろう。しかし、すでに我々のペースは「歩く」と表現できるぎりぎりの速度まで高められている。ここからさらにペースを上げて差を縮めるのは難しい。私はペースを変えることなくまっすぐに進むつもりだ。おそらく、このままなら勝利できる。私がそう確信したとき、このレースに終わりが訪れた。

 男は突然歩みを止め、右側にある家の敷地に入っていった。「ただいま」という声がする。男は、家にたどりついたのだった。私に先行されたままレースを終えるのは、さぞかし悔しかったろう。気のせいか、「ただいま」という声にも悔しさがにじみでているようである。しかし、私は幸福であった。わずかとはいえ、リードを奪ったままレースを走りぬいたのである。

 私は勝利の余韻をかみしめながら、歩みを止めた。一日の最後にこのような勝利を収めることができたのは幸運だった。今日はいい夢を見れそうだ。私はにっこりと微笑んで、男が入っていった家を眺めた。そうして、とっくに通り過ぎていた我が家に帰るべく向きを変えた。




花の命はみじかくて
2000.08.11

 花火とは綺麗なものである。夜中に花田(仮名)から電話がかかってきて、何事かと思えば「花火を見に外に出ないか」という誘いだった。耳をすませばドンドンパンという効果音が聞こえてくる。なるほど、花火だ。下駄をつっかけて近くの堤防にあがる。こういうとき、田舎はよい。堤防の向こうは見渡す限りの水田がひろがっているので、花火を見るのにさえぎるものはなにもない。わざわざ混んだところにでかけなくとも、悠々と花火を見ることができるのである。

 花田はまだ来ていなかったので、しばらく一人で空を見上げる。その姿は、あたかも遠い故郷に思いをはせる宇宙人のようである。そんなロマンチックなことを考えていたら、遅れて花田がやってきた。私のロマンチックな発想を話したら、花田は「飛行機に乗り遅れて呆然としている人みたいだった」と言った。失礼なやつだ。

 今度はふたり肩を並べて空を見上げる。念のために言っておくと、花田は男だ。肩を並べているのが女性だったならば「きみの美しさの前には花火もかすむよ」とか「きみの瞳が輝いているのは花火が映っているからかな? それともぼくが映っているのかな?」とか「花火って情熱的で可憐で……、まるで君みたいだ」とか、言った二秒後に後悔するようなセリフをさらりと言えたのに。そう花田に話すと、花田は「おまえに似合っているのは『オイラも発射準備完了だぜ。デヘヘヘ』というセリフぐらいかな」と言った。失礼なやつだ。

 しばらくぼうっと花火を眺めていると、しだいにもりあがってきた。終了予定時刻まであと十五分だ。ここぞとばかりに大きな花火が打ち上げられる。きっとあの光の下では、花火職人たちが年に一度の晴れ舞台に汗を流しているのだろう。それ以外の日々は小屋にこもって、より美しい花火をつくりつづけるのである。そんな生きかたもいいなあ、と花田に言うと、「お前を見るのが一年に一回ですむのなら、みんな賛成してくれるよ」と花田は言った。失礼なやつだ。

 やがて最後の花火が打ち上げられる。特大の花火だ。花火の相場がいくらなのかは知らないけれど、ふつうの三倍ぐらいの価格だろうなあと思った。夜空に金色の大輪が咲く。ぶるりと鳥肌がたつような一発だ。この一発だけでも、外に出て空を見上げていたかいがあったというものだ。そう花田に言うと、「お前の一発ギャグを聞いたときぐらいに鳥肌がたつよ」と花田は言った。失礼なやつだ。

 夜空には白煙だけが残り、それも消えた。あっけない幕切れではあるが、花火の醍醐味とはそのあっけなさにあるのだろう。しばらく余韻を楽しんだあと、花田がぽつりと言葉をもらした。「本当は、今日のこの花火は彼女と見ようって言ってたんだけどな…」と。失恋なやつだ。




あなたはだんだん眠くなる
2000.08.09

 あくびとははたして「すう」ものであるのか「はく」ものであるのかという疑問は、古来より多くの賢人たちを悩ませてきた。むろんいうまでもないことであるが、我々があくびをしたときに、空気の流れはいったん我々の体内に侵入したあと、放出される。すなわち、あくびをしたとき我々は空気を「すった」ということもできるし「はいた」ということもできる。しかし、それは冒頭の疑問に対する答えにはなっていない。我々が疑問としているのはあくまで「あくび」の動きであって、「空気」の動きではないのである。

 我々が大きく口をひらき「あくび」をしたとき、はたしてそれは我々の体に入ろうとしているのだろうか。それとも我々の体からでていこうとしているのだろうか。「あくび」をするときに大きく口を開けることからすれば、「あくび」が我々の体内に侵入または放出のいずれかの動きをしているかは明らかである。にもかかわらず、我々はその二者択一を特定できないでいるのだ。

 「あくびとは『すう』ものである」と主張する賢人の一人は言う。「我々は夜眠らなければならないが、なぜ眠らなければならないのかは解明されていない。つまり、我々の内側に『眠り』というものは内在していない。しかし、理由がないにも関わらず、眠気というものは訪れる。だとすれば、我々は眠る前に外から『眠り』を取り入れているに違いない。それこそが『あくび』ではないだろうか」

 確かに、我々は眠らなければならない理由などないにもかかわらず、毎日のように床につく。それは我々が「あくび」をからだに取り入れているからだとすれば、説明がつく。賢人はさらに言う。「眠気というのは、従来までは単に『眠くなる気分』のことだと思われてきたが、眠気とは一種のエーテル体であり、あくびとはそれを指すに他ならない。したがって、あくびとは『すう』ものである。そうでなければ、我々が眠る理由がないではないか」

 一方、「あくびとは『はく』ものである」と主張する賢人の一人は言う。「あくびとは声のようなものだ。たとえば、我々が足をおもいきり岩にぶつけたとき、思わずうめき声がもれる。親しい友人が亡くなったとき、思わず嗚咽がもれる。つまり、我々は内なる衝動を声に託して外に出す。あくびもその類型である」

 確かに、我々があくびを出すのは極端な眠気をもよおしたときである。その衝動こそが「あくび」であるというのも、理にかなっている。賢人はさらに言う。「我々が大きくあくびをしたときに、思わず声がもれるのは誰しも経験したことがあるだろう。これこそ我々が衝動を外に出していることの証拠に他ならない。我々は眠りの衝動を『あくび』というかたちで外に放出しているのである」

 この二者択一は、現代の科学をもってしても解決していない。賢人たちは疑問を解決すべく白昼から幾度となくあくびを繰り返し、はたして自分が今あくびを「すって」いるのか、それとも「はいて」いるのかということを考え、そのまま寝入ってしまうのであった。




あの壁を越えれば
2000.08.02

 私の頭は世間一般で言うところの「ぜっぺき頭」であり、世間一般で言わないところの「オッペケペ頭」である。したがって、私は丸坊主が似合わない。似合ったからといって気軽に丸坊主にするわけにはいかないのであるが、やはりいざというときのために丸坊主が似合う頭であってほしかったと思うこともある。その点は残念だ。とはいえ、自分の頭が嫌いなわけではない。おおむねは、この「ぜっぺき頭」というものを気に入っている。

 「ぜっぺき頭」とは、一般にネガティブなイメージとともに語られることが多い。いわく、「帽子が似合わない」、「髪を短くすると角刈りだと思われる」、「同僚が頭に荷物を置こうとする」、「家族が食卓と勘違いしている」などである。しかし、あまり語られることはないのだが、それらを補ってあまりある長所が「ぜっぺき頭」にはある。それは「とっかかり」というものだ。

 あまり人の頭をじっくりとなでまわすことがないので、標準的な頭のさわり心地というものがどのようなものかはよく分からないのだが、自分の頭の形状なら完璧に言うことができる。うなじのあたりから頭頂にむけて手をすべらせていけば、はじめのうちはマムーという感触であり、次第にモメーという感触になって、いきなりムミッという感触がある。そういう感じだ。つまり、私の手は私の頭の形状を完璧に記憶している。

 この「完璧に頭の形状を記憶している」ということが役に立つ。たとえば朝起きたとき、ふと「私は誰?」と思ってしまうことは誰にでもあるだろう。寝起きというのは頭が働かないし、夢の中の現実ばなれした世界を味わってきたばかりなのだから、自分がいったいどういう人間で、どういう立場にあるのかということを即座に判断することは難しい。そういうときに役立つのが「ぜっぺき頭」である。「私は誰?」と思ったときに、ふと頭に手をやる。そうすると、いつもの感触がそこにある。ああ、このムミッとした感じは間違いなく私の頭だ、という安心感とともに自分を取り戻すことができる。これは、寝起きだけに限らない。たとえば空を舞う蝶をぼうっと眺めていると、自分が蝶を見ているのか、蝶が自分の夢を見ているのか分らなくなるようなときがある。そういうときも、そっと頭に手をやれば、「ああ私は私だ」と安心することができる。

 あるいは、「ぜっぺき頭」は寂しくなったときにも頼りになる。たとえば、あなたはお金持ちの令嬢だとして、どこかのお嬢様学校の学寮にはいったのだけれど、実家が破産してとうてい学費が払えなくなったとして、そこでいじわるな先生が「もうお前に食べさせる食事なんかないよ」なんて言って、あなたは食事を得るためにメイドの役割を果たすことになり、もちろん今までの部屋は追い出されて屋根裏部屋なんかに押し込められて、かつての学友たちの食事や洗濯の世話をしなければならなくなったとする。そういうとき、あなたは自分の身の不幸を嘆くのではないかと思う。夜中に枕を涙でぬらし、自分の孤独を悲しむと思う。そういうときに活躍するのが「ぜっぺき頭」だ。

 なにしろ、「ぜっぺき頭」とあなたは一心同体である。つらいときも悲しいときも、あなたのそばにいるのが「ぜっぺき頭」である。ひとりきりでは耐えられないようなつらいことでも、「ぜっぺき頭」といっしょなら耐えられる。悲しいときは手をそっと「ぜっぺき頭」にあてる。すると、涙が消えていく。私だって泣こうと思ったら声をあげていつでも泣けるけど、この「ぜっぺき頭」があるかぎり、強く生きていこう。そんなふうに思うのではないだろうか。「ぜっぺき頭」はこんなふうにも役立つ。

 常々疑問に思っているのだが、まん丸な何のとっかかりもない頭の持ち主は、いったいそのようなときにどうしているのだろうか。頭のどこをさわってもムメーという感触しかない人は、いったいどのようにして自分が自分であることを確かめるのであろうか。どのようにしてつらいことに耐えるのだろうか。ふと絶望的な気分に陥ったとき、どこにも「とっかかり」がないのでは、絶望的な気分から立ち直れないのではないだろうか。かといって、世をはかなんで身を投げようにも絶壁はないのだ。




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