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滋賀県
2001.08.29

滋賀県というのは、福井県と岐阜県と三重県と京都府に囲まれた県で、琵琶湖のまわりにへばりつくように人が住んでるところだ。そんな説明はないか。あー、琵琶湖にへばりついてないところもありますが、そこには忍者が住んでいます。

堀井憲一郎『東海道五十三次を歩く』


 生まれてすぐに引っ越してきたので、故郷といえば滋賀県のことである。日本地図のまん中にあるのだから多少の知名度はあるというものの、どことなく華やかさに欠けることは否めない。なんというか、漠然とした印象しか持たないところだと思う。

 「良くも悪くも琵琶湖」という言葉があって、滋賀県に住んでいない人に「滋賀県といえば?」と質問すれば、92パーセントぐらいの人は「琵琶湖」と答える。ひとつ目立つものがあるのはいいのだが、言い換えれば琵琶湖以外はあまり認知されていないということでもある。「良くも悪くも琵琶湖」なのである。もちろん「西堀栄三郎記念館」とか「イーゴス108」とかマニアックなスポットを答えられても、それはそれで何だか馬鹿にされているような気がしないでもないけれど、ちょっと「琵琶湖」と答えられるのに飽いているのも事実なのである。

 もちろん、滋賀県には琵琶湖以外に何もないわけではなく、とりあえず滋賀県に暮らす人間としては「平和堂」の存在を語らずに済ませることはできない。平和堂というのは滋賀県を中心に展開する中規模スーパーマーケットのことである。もし滋賀県を電車で旅する人がいれば、しばらく窓の外を見ているとよい。シンボルマークである白と緑のハトを、必ず十数羽は見つけることができる。ちなみに平和堂は滋賀県に61店舗もある。要するに、滋賀県は平和堂だらけである。県内のあらゆる駅前に平和堂があるといっても過言ではない。そのせいか滋賀県にある駅の出口には「西口」「東口」といった名称がつけられず、「平和堂口」「平和堂逆口」と名づけられたりする、というようなことはないのだが、これは駅の両側に平和堂が建っている場合を考慮してのことである。

 あと、平和堂は「HOPカード」というポイントカードを発行している。恐るべきことに、この「HOPカード」をほとんど全ての滋賀県民が持っている。以前、他府県の人に「滋賀県の人って、なんでみんなそのカードを持ってるの?」と聞かれたので、「これは滋賀県民のIDカードである」と答えておいたが、あながち間違いではないと思う(事実、相手は納得していた)。腰の曲がったおじいさんでもおしゃれをしたお嬢さんでもHOPカードを持っていたりする。恐ろしいことだ。もしあなたの知り合いに滋賀県民かどうか疑わしい人がいたならば、ちょっと財布を見せてもらうといい。「HOP」と書かれた黄色いカードを持っていれば、そいつは「隠れ滋賀県民」の可能性が非常に高いので、厳しく追及してあげるとよい。

 そんな感じに、私は滋賀県といえばつい「平和堂」のことを考えてしまうのだが、他府県の人は平和堂の存在すら知らないのだと思う。それに、「滋賀県といえば?」という問いに対して「平和堂」と答えられても、それはそれで虚しいような気がするので、インターネットを用いて広く世間に「滋賀に平和堂あり」と情報発信するようなことはしないでおこうと思う。やはりここは漠然とした土地なのである。


追伸 上のほうに書いた「イーゴス108」というのは滋賀県内の遊園地にある観覧車の名前である。高さが108メートルというのが日本一(当時、今は知らない)だったのが「スゴーイ」ので「イーゴス」と名づけられたのである。スゴーイ。




ああっ神さまっ
2001.08.16

 私がその事実に気づいたのは、駅へと向かう途中のことだった。

 数日前に友人がつまらない病気で入院し、私は見舞いに行くことにした。友人が入院している病院は、駅から二キロほどの場所にある。駅でタクシーをつかまえようかと思ったけれど、二キロ程度なら三十分も歩けば病院に着くだろうと考え、私は歩き出した。実際、ちょうど三十分ほどで私は病院に着いていた。病院の暗い雰囲気に落ち込んでいる友人にファンキーなアメリカンジョークを披露してよけい暗い雰囲気にしたあと、病院を出た。

 時刻はちょうど正午である。正直に言えば、夏の暑い日に二キロの道を歩くのは、いくら若く健康で切れ長の瞳がチャームポイントの私であっても、結構きついような気がした。しかし、たかが三十分のことでもある。考えようによっては(地獄の炎に三十分間焼かれることなどに比べれば)、たいしたことではない。そう思って、私は駅へと歩き出した。

 暑い日差しのもと、私は静かな田舎道を歩いていた。そうして一時間ほど歩いただろうか。そこで、私はあるひとつの事実に気づいてしまったのである。三十分ほど前からうすうす気づいていたのだけれど、なかなか確信が持てなかった。暑い日差しが私の思考力を蝕んでいたのかもしれない。まさか私の身にそんなことがふりかかることなどありえないという固定観念が、私の現状認識を妨げたのかもしれない。しかし、私はひとつの事実を認めざるを得なかった。

「迷子になった」

 周りを見回してもまるで見覚えのない風景である。私は記憶力のいいほうではないけれども、つい一時間ほど前に病院への往路で見た風景の断片ぐらいは覚えている。それが、私の周りにはまったくないのである。情けないことに、私はまぎれもなく迷子になっていたのであった。

 迷子になったことがある人なら、あの独特の不安感を理解していただけることだろう。まっすぐに続く道を、はじめは自信満々に歩いている。しばらくして、どうも辺りの風景に見覚えのないような気がして、ちょっと不安感に襲われる。しかし、「気のせい、気のせい」と無理に不安感を押し殺してそのまま道をまっすぐに歩いていく。やがて、完全に迷子になったことに気づき、狼狽に襲われるのである。ふだんは信じていないのに、動揺して神に呼びかけてしまったりするのである。

 迷子になったと気づいた私に、どこからともなく声が聞こえてくる。
「小学生じゃあるまいし……」
「いい大人が恥ずかしい……」
「馬鹿だ……」
「君が入院したほうがいいんじゃないの……」
「人間失格だね……」
「でも、そんなあなたってステキ……」
 声は私を責めたてる。もし私が幼稚園児だったとしたら、このあたりで泣き出してしまったことだろう。しかし、私は小学生に匹敵する精神力を持つといわれる男である。たかが迷子になったぐらいで泣いたりはしない。冷静になろうと試みた。

 迷子になったときの対処法はいくつかある。地図をさがしたり、太陽などから方角を確かめたり、近くを歩いている大人に泣きついたりすればよい。ただ、辺りを見回しても地図はなく、太陽は私の頭のちょうど真上にあり、道は閑散としているのであった。要するに、どうにも対処のしようがない。むろん、それぐらいで私はあわてたりはしない。迷子でパニックになった子どもは、とにかく知った道を見つけようとむやみに走り回ったりするが、そんな見苦しいまねはしたくないものだ。私は早歩きで知った道をさがしまわった。

 そうしてあっちにいったり、そっちにいったり、ひどく長いあいだ私は迷いつづけたのだが、細かいことは私の名誉のために省略する(すでに地に落ちているような気もするが)。数十分ほど歩いた末に、私の耳にかすかな音が聞こえてきた。踏み切りの音である。踏み切りはたいてい駅のそばにあるものだし、音に向かっていけば少なくとも駅の方角に向かうことができるだろう。そう判断して、私は勇ましく歩き出した。

 やがて駅が見えたときは、心の底からほっとした。うれし涙がこぼれぬよう、上を向いて歩いた。空を見上げながら、無事に私を帰してくれたことを神に感謝した。きっと私が呼びかけたとき、神はあわれな私に気づいてくれたに違いないのである。

「おお、迷子」




おまえとふたりきり
2001.08.11

 大阪人が二人寄ればボケとツッコミに分かれるというのはよく言われることだけれど、特に大阪人に限らずとも、全ての人がボケとツッコミの役割を意識しながら生きているのではないだろうか。むろん、職業としてボケやツッコミを選択する人はまれであるにしても、自分の果たすべき役割がボケ寄りなのかツッコミ寄りなのかぐらいは考えた上で周りと接する人は多いだろう。

 簡単に例を挙げれば、ごく普通に「今日はいい天気ですね」と声をかけられたときでもボケ寄りとツッコミ寄りでは反応が違う。ボケ寄りの人はなんとかボケようとして「ハレ〜」と言いながら大空高く飛んでいったりするし、ツッコミ寄りの人はなんとかツッコもうとするのだけれどツッコミどころがないので「ツッコむところがないやん」とツッコんだりする。

 つまりは全ての人がボケなりツッコミなりを意識して生きている、というのが私の主張なわけだけれど、そこにひとつの疑問が生まれる。いわゆる「天然ボケ」というやつである。

 「天然ボケ」というのは、上述したような人為的なボケではなくて、自然体によるボケとされるものである。「天然ボケ」という言葉を聞くたびに思うのだけれど、それって「ただボケている人」なのではないだろうか。意識してボケているなら「もとはちゃんとした人なんだろうな」と思うけれど、自然の力でボケているのはやっぱりただのボケだと思うのだけれど、どのへんで「ただのボケ」と「天然ボケ」を区別しているのだろう。

 ところで、「天然ボケ」について考えていると気になるのが「天然ツッコミ」の存在である。あまり「あの人は天然ツッコミだから…」なんてセリフを聞いたことがないのだけれど、「あるがままにボケ」の人がいるなら「あるがままにツッコミ」の人がいたっておかしくないんじゃないだろうか。ツッコもうと思っていないのに、無意識にからだがツッコんでしまうのである。道端でバナナの皮にすべって転んだ人を見たら「いつのボケやねん!」と叫びながらトラックでツッコんでいったりするのである。

 余談になるけれど、「天然ツッコミ」について考えていると思い出すひとつの光景がある。そのとき私は駅のホームで電車を待っていたのだけれど、時間になっても電車が来ず、スピーカーからアナウンスがあったのである。
「ただいま人身事故により電車が一時間ほど遅れております。しばらくのあいだお待ちください」
 そのとき駅のホームに立っていた人はいっせいに虚空に向けて横手刀をくりだしながら、「どこが『しばらく』やねん!」とツッコんでいた。誰に言われたわけでもないのに、この一体感。このとき私は皆に天然ツッコミ能力の片鱗をみたように思う。

 で、話をもとに戻すけれど、天然ボケがいるなら天然ツッコミがいたっておかしくない。すると、天然ボケの人と天然ツッコミの人が出会うとどんな感じになるんだろうと思う。まあ、素直に考えれば理想の関係というやつなんだろう。おたがい何も考えることなく、ボケればツッコんでもらえるし、ツッコみたいときにボケてもらえる。自動筆記ならぬ自動漫才である。そんじょそこらの人間では割り込めないほどの深い関係になってしまうのだろう。そうして、二人はどこまでもオチていく、と。




自由の示すもの
2001.07.26

 「自由研究」とはその名が示すとおり好きなテーマを選んで研究をすればよいのであるが、いくつかの暗黙のルールがないわけでもない。それは小学校を卒業すればわかるような類のものばかりなのではあるが、あいにくと自由研究とは小学生に課される課題なのである。

 そこで、せっかくの自由研究シーズンが到来したことであるし、ここはひとつ「自由研究における暗黙のルール」について書いておきたいと思う。この文章を読んでいる小学生がはたして何人いるのかは知らないけれど(たぶん一人もいないけど)、小学生の子どもを持つ親御さんには少しぐらい参考になるだろう。

 まず、自由研究が夏休みに課される課題であることに着目したい。なぜ、平時の課題ではなく夏休みを選んで出されるのか。これは、夏休みにおける小学生はヒマだという前提があり、ヒマだからきっと多くの時間を研究に割くだろうということを期待されているのだろう。少なくとも、二秒で飽きるようなテーマを選んではいけない。

ルール1…研究にはある程度時間をかける
良い例「アサガオの観察」
悪い例「輪ゴムの観察」

 もっとも、単に時間をかければよいというわけではない。やたらと時間のかかる分不相応なテーマは避けるべきであろう。自分が小学生であることを忘れてはいけない。簡単すぎる研究は良くないが、難解すぎる研究もあまり歓迎されないものなのである。

ルール2…小学生らしい研究であること
良い例「アサガオの観察」
悪い例「非イオン性ノニオン活面活性剤の分子構造の観察」

 簡単すぎず、難解すぎず、ちょうどよい加減というものがある。そういうバランスを考えるのが大切なのである。できれば、日常のちょっとした疑問や興味を研究テーマにするのがよい。あまりにも日常と乖離した研究は、少なくとも小学校の先生には受けが悪いのではないかと思うのである。もっとも、日常と密着しすぎた身近すぎる題材を選ぶのも考えものだ。

ルール3…身内の恥をさらさないこと
良い例「アサガオの観察」
悪い例「母の脱毛の観察」

 笑いはとれるかもしれないが、両親の目が三角になるのを見たくはないだろう。やはり、あまり自分に近すぎるのはよくない。研究テーマと自分との間にはある程度の距離感があることも大事である。やはり家族のことは自分に近すぎるし、書くことはやめたほうがよい。だからといって、家族以外ならいいというわけではない。

ルール4…公序良俗に反しないこと
良い例「アサガオの観察」
悪い例「となりのお姉さんの観察」

 「ストーカー規制法」というものを知っているだろうか。自由研究だから、小学生だからといって何でも許されると思ったら大間違いだ。お母さんに盗聴器やピンホールカメラをねだったりしないように。お母さんは「勉強に使うから」という子どもの言葉に騙されないように。

 だいぶ長くなってきたので、このあたりで最後にしようと思う。最後に最も重要なルールを書いておこう。自由研究の最大の目的は何かといえば、少なくとも優れた研究成果を出すことではないと思う。おそらくは「何かやり遂げる」という教育的効果を狙って出される課題ではないかと思うのである。したがって、途中で投げ出すのはよくない。きちんと夏休み中に自分の始めた研究をやり終えなければならないのである。

ルール5…完結させること
良い例「アサガオの観察」
悪い例「アサガオの観察(序章)」




可愛くて御免なさい
2001.07.21

 日本語にはひらがなとカタカナと漢字が入り交じっており、それぞれに特徴があるのだが、そのひとつに「ひらがなは可愛い」というものがある。これはまったくその通りなのであり、ひらがながいつごろ考え出されたのか知らないけれど、きっとひらがなというのは「これ、可愛いくない?」「ここを曲げたほうがもっと可愛くなるよ」などという会話とともに生み出されたにちがいないのである。

 「ひらがなは可愛い」というのとは対照的に、「漢字は怖い」というイメージもある。これはたとえばバイキンマンというキャラクターをひらがなと漢字で書き分けてみれば、一目瞭然だろう。ひらがなで書けば「ばいきんまん」である。ちっちゃくてころころしていて、思わずつかまえてケージで飼いたくなるようなキャラクターだろうという感じがする。一方、漢字で書けば「黴菌男」である。この怖さはなんだろうか。どこかの改造人間か細菌兵器かと思う。かように、ひらがなと漢字ではイメージが違う。

 もう一つ例を挙げよう。NHKの「お母さんといっしょ」という番組に「ジャジャ丸」というキャラクターがでてくる。ひらがなで書けば「じゃじゃまる」である。ちょっとやんちゃで生意気盛りで、でもそこが可愛い男の子、というイメージである。一方で、漢字で書けば「邪々丸」である。どう考えても悪役である。時代劇にでてくる忍者のコードネームのようである。「じゃじゃまる ぴっころ ぽろり」と三匹のキャラクターが並べば「子どもと安心して見られる番組」であるような気がするが、「邪々丸 ピッコロ(大魔王) ポロリ(乳)」などというようなキャラクターたちであれば、とてもNHKでは放送できないだろう。

 そういう可愛らしいひらがなの中で、最も可愛らしい言葉はなにかということを考えていた。ひらがなの可愛らしさをもっとも端的にあらわしているような言葉である。いろいろな候補を考えたけれど、私が「これはいい」と思ったのは二つばかりあった。

 ひとつは「ぷんすか」というものである。怒っているときの擬態語である。一般に怒っているときにはきつい文章を書きがちだ。だけど、このぷんすかという言葉をつければ、どんな文章でも可愛らしく思えるから不思議である。

彼は怒りのあまり、拳をたたきつけた(ぷんすか)。

 ほら、可愛いじゃないか。相手は怒っているのに、その情景を想像すると、なんだかほほえましい気持ちにすらなってくるではないか。でも、実際に怒っている人の前で「ぷんすか」を想像して、ほほえんだりすると、余計に怒られるから注意した方がいい。

 もうひとつは「でこつん」である。聞き慣れない人もいるだろう。「でこつん」とは「おでこをつん」の略である。ちょっとふくれっつらをした恋人が「もうっ」と言いながらおでこをつんとつつく情景を「でこつん」という一語で表したのである。

「とんだ失敗をしてくれたもんだね」
韮崎課長は次郎の顔をねめつけて言った。
「なんらかの処分を受けるのは覚悟しておきたまえ…(でこつん)」

 「でこつん」が無ければ、島流しも覚悟しなければならないような場面だ。しかし、でこつんがあるだけで、実にほのぼのとした情景になってしまうではないか。思わずほほえんでしまいそうだ。だけど、実際に上司が怒っているときに「でこつん」を想像してほほえんでしまうと、よけいにきつい処分がくだるから注意した方がいい。また、上司が一子相伝の奥義の継承者だったりしたら、でこつんですら命に関わるかもしれない。

 以上、ひらがなとは可愛いものであり、「ぷんすか」と「でこつん」がその二大巨頭であるということを考察した。この二語の可愛さの前には、人はあまりに無力である。実際に「ぷんすか!」と怒り、「でこつん」で制裁を加える人の前では、とてつもない無力感におそわれるだろう。




洗わば洗え
2001.07.15

 風呂場には一定の手順があり、その手順には、人によってほとんど変わらないものもあれば、人それぞれのものもある。たとえば多くの人は浴槽につかるまえに、服を脱ぐ。これは万人共通だろう。しかし、からだを洗うときどこから洗いはじめるか、などは人によって違う。比較的キレイなところ(胸板、腕、腹など)から洗い始めるのがよいのか。それとも逆に、汚れているところ(股間、足の裏、腹の底など)から洗い始めるのがよいのか。どちらが正しいともいえまい。

 玉のような肌の美人が鏡の前にそっとしゃがみ、いったいどこから洗い始めるのかと思えば、いきなり足指の股を洗いはじめたら、どうにも違和感を感じるだろう。なんだか美人らしくないではないか、と。誰かに見られているわけではないけれど、そういうことにこだわる人も多い。人は、それぞれに確立された「風呂場の手順」というものを持っている。

 ところで、風呂場というのは私的な空間である。親しい人間と入ることはたまにあったとしても、赤の他人と入るということはそう多くない。銭湯や温泉のように見知らぬ人と入る機会がないわけではないけれど、それでも人はその中でそれなりに自分の領域を保とうとする。ひとつのカラン、ひとつの鏡を一定時間占有する。このカランはふたりで仲良くつかいましょうなどと、からだを寄せ合うようなことは、滅多にない。「ご相席よろしいですか?」などと言われて、小さい椅子に尻を寄せ合って、「うふふ…」「あはは…」と笑いあって、しだいに気持ちは高まって、ふたりは見詰め合って、やがて恋に落ちる、というようなことはまずない。

 とにかく、風呂場というのは私的な空間である。そうすると、間違いに気づく機会が少ない。自分がスタンダードと思っている「風呂場の手順」が、まるで常識外れかもしれない。誰かのやりかたをじっくりと眺めるという機会が少ないからだ。きっと世の中には根本的に勘違いしたまま大人になってしまった人もいるのだろうな、と思う。

 タオルの使いかたひとつをとってもそうだ。タオルというのは体を洗ったり、拭いたり、前を隠したりするのに使うと思っている人が多いけれど、あるいは、風呂場でのタオルの使い方は、目隠しをするためだと思っている人もいるだろう。そんな勘違いをしたまま風呂に入っている人もいるはずだ。

 彼はパンツの中からタオルをとりだし(彼はパンツをはいたまま風呂に入る習慣がある)、おもむろにそれで目隠しをする。何のために目隠しをするのかは彼自身も知らない。ただ、そういうものだと思っているのだ。やがて彼はからだを洗いはじめる。石鹸を手につけて、ぬるぬるとなでるように洗いはじめる。そういうものだと思っているのだ。やがて全身を洗い終えた彼は、おもむろに風呂場へのドアを開けるのである(彼は一連の動作を風呂場に入る前にするものだと思っている)。

 そんな勘違いをしている人がいないとはいえないだろう。普通の人だって、自分のやっている手順が正しいと絶対の確信を持つことができるだろうか。いや、できまい。「正しい風呂場の手順」など存在しないのだから、すべてが間違っていると言うことだってできるわけだ。むろん、私は間違ってなどいないが。

 ただ、前述したとおり風呂は私的な空間である。どんな手順だろうが他人がとやかく言われる筋合いはない。いきなり「お前の風呂の手順は間違っているぞ」なんて言われたら、「なんでお前にそんなこと言われなきゃならんのだ」と、わりと親しい人であっても怒り出しそうだ。ましてや、ふだんからいがみあっている奴に電話などをして「お前の風呂の手順は間違っているぞ」なんて言ったりしたら、殴り込みをかけられたって文句は言えない。

 そのときは、まず首を洗っておこう。




耳の遍歴
2001.07.09

 『耳』という雑誌があったとする。

 たぶん、落ち着いた雰囲気の雑誌だろう。それほど売れているわけではなさそうだし、何かと間違えて買うという人もあまりいるとは思えない。ただ全国の耳愛好家の人々が、どことなく後ろめたいような気持ちで、そっと買うような雑誌だろう。

参考図A  もちろん、記事は耳に関するものばかりだ。たとえば、『耳』には毎号、耳に関するゲストへのインタビューが載っている。医学界での耳の権威であるとか、福耳で有名な経済界の重鎮であるとかが、毎号のように少しとまどったようすで耳に関するインタビューを受けている。たまにネタがなくなるのか、変わったところで「福助」などが登場したこともある。福助さんは無口みたいで、セリフはずっと「…………。」だった。でも、インタビュアーは平然としていた。

 耳の健康に関する情報も、異様なまでに充実している。先月号の特集は「全国縦断、耳鼻科ツアー」だった。画期的なような気もするのだけれど、よく考えてみれば、たくさん耳鼻科を紹介されているからといってどうなのだろう。わざわざ「あそこは名医だ」などといって遠い地方まで出かける人がいるのだろうか。よくわからない。

 もちろん、補聴器や耳栓などの情報も欠かせない。数百円のものから数十万円するものまで、高年齢向きのものから若者むきのものまで、世の中にはこんな種類のものがあったのかと驚くばかりだ。素人にはさして違いがあるとは思えない。しかし、その筋の人が見れば、最新情報の充実した最高のカタログだろう。まさに、耳よりの情報というやつだ。

参考図B  耳グッズに関する情報も充実している。イヤリングやピアスといった装飾品の情報は、おそらく世界有数だろう。もっとも、主眼はあくまで耳だから、顔写真を写したりはしない。ひたすら耳の写真が並んでいるばかりである。装飾品ならまだしも、耳かきも同じようにずらりと耳が並んでいるだけである。耳に耳かきを突っ込んだ写真がずらずらと並んでいるのは、なんだか異様である。素人目には、どこがどう違うのかすらよくわからない。でも、これもその筋の人から見れば、とても興奮できる光景なのかもしれない。

 白黒ページには連載小説も載っている。今、連載されているのはスターウォーズに匹敵するといわれている大作スペースオペラ「世界の中心で愛を叫んだ耳なし芳一」である。ちょっと私のつたない表現力では、この小説のおもしろさを伝えることはできないけれど、地球侵略をたくらむネコ耳型宇宙人ニャーニャーと、山田芳一(23歳・吉野家店員)が世紀末の地球を舞台に繰り広げるバトルには、毎号ハラハラさせられている。

 もちろん、地味なページばかりでなく、きちんと若者向けのページもある。「今月の耳年増」なども、私が期待してページを開くひとつだ。毎号のように、どこからか見つけてきた耳年増の娘が、ちょっぴり大人の話をしてくれるのである。いやはや、まさかあんな可愛い子があんなことを…、とこれ以上書くのはやめとこう。とりあえず、硬いばかりの雑誌ではないということだ。

 お約束の占いコーナーもある。「今月の耳占い」では、来月の耳の運勢が手にとるようにわかる。ちなみに天秤座の運勢は「ちょっぴり耳かき運が上昇」とのことである。

 とまあ、こういう雑誌なのである。はたして、この雑誌は売れているのだろうか。どうも、売れそうにない。出版社の経営は成り立ちそうもない。一応、この出版社は他にも「月刊 鼻」と「週刊くちびる」を出しているけれど、全部の発行部数をあわせたってたいしたことはないだろう。いったい、いつまでこの雑誌が存続するのか、心配されるところである。できれば、細々とでもいいので、いつまでも『耳』の発刊を継続してほしいと思う。

 もちろん、そんな雑誌があればの話だが。




手引きのようなもの
2001.07.01

 たとえば、あと一分で恋人との待ち合わせの時間がきそうなとき。全力で走るほどではなく、かといってゆっくりと歩いているような場合ではないとき、人は小走りになる。そういうとき腕をどのように振るえばよいのか、私はいつも迷う。

 問題は、どのように腕を振るか、ということなのである。歩いているときはいい。腕を振らなくても不自然ではないし、振ろうとすれば腕を伸ばしてゆっくりと振ればよい。走っているときもいい。ひじを曲げ、元気よく前後に振ればよい。見ていてすがすがしい。問題は、小走りをしているときなのである。

 歩いているときのように、腕を伸ばしてゆっくりと振ればよいのだろうか。いや、だめだ。なんだかバランスがおかしい。せかせかと動く足と、ゆっくりと動く腕だ。せっかちなのか、のんびり屋さんなのかわからない。せっかちなのんびり屋さんだとでもいうのか。そんなのは、恥ずかしがりやの露出狂みたいなもんじゃないのか。どっちつかずで認めがたい。

 走っているときのように、ひじを曲げて大きく振ればよいのだろうか。いや、だめだ。なんか恥ずかしい。やたらにはりきっているみたいだ。全力疾走ならまだしも、小走りなのだ。はた目からは、よほど嬉しいことがあったのかと思われるだろう。やっているうちに、ちょっと嬉しくなってきそうなのが、なおいやだ。

 では、どうすればいいというのだ。これぐらいのことを解決できないのか。何かアイデアはないのか。今こそ頭を使え。私がただのばかではないことを証明するときではないか。そのとき、私の頭に一条の光が差し込んだ。

「手は腰に」

 そうだ、手を腰に当てて小走るのだ。足音も軽やかに小走るのだ。満面の笑みで小走るのだ。これだったら腕をどう振るかなどという瑣末なことに悩まなくて済むぞ。いいじゃないか。すごく、いいじゃないか。さすが私だ。だけど、欠点がひとつだけあるぞ。ばかみたいだ。

 これじゃだめだ。ばかみたいなのは、いやだ。せっかく人知を駆使して考え出した解決法が、ばかに見えては本末転倒ではないか。手を腰に当てるのは、銭湯でコーヒー牛乳を飲むときと、鼓笛隊の指揮者になったときだけで十分だ。私はどちらでもない。何か他の方法はないものか。

「タンバリンをたたきながら小走る」

 こんどこそ、どうだ。なんて画期的なんだ。なんて爽やかなんだ。タンバリンをたたきながら、小走りに駆けていく私を思い浮かべてみるがいい。あたかも、白馬が白樺の立ち並ぶ小道を颯爽と駆けていくかのようではないか。その想像は、自分でもちょっと無理があると思うぞ。それに、やっぱりばかみたいだ。

 いったい、私はどうすればいいのか。このままじゃ、満足に小走ることもできやしない。一生、悩みつづけながら小走りつづけなければならないというのか。かといって、アイデアもまとまらないまま小走ったらばかだと思われる。そんなのはいやだ。ああ、どうすればいいんだ。

「小走るかわりに、スキップ」

 ……たとえば、あと一分で恋人との待ち合わせの時間がきそうなとき。全力で走るほどではなく、かといってゆっくりと歩いているような場合ではないとき、私はスキップをする。待ち合わせ場所には、逃げていく恋人の姿が見える。




アクアリウム
2001.06.18

 人は海で「おしっこ」がしたくなったら、どうするだろうか。わざわざ海からあがってトイレを探すような人はまれであると思う。たいていの人は、海でそのまましてしまうはずだ。上級者ともなると、海ではあきたらずプールや風呂でもやってしまう。海で「おしっこ」をすると、「はわわ〜」という感じに気持ちいいことは、多くの人に共感してもらえるだろうと、私は信じている。

Ψ

 たぶん、小学校の一年生か二年生のころだったと思う。そのころの私は、思わずいたずらをしたくなるような可愛らしい小学生で、よくいたずらをされていた(牛乳を飲んでいるときにくすぐられる、など)。そういう、いとけない子どもをイメージして、この話を読んでもらいたい。

 その日はものすごいどしゃぶりで、私は黄色いレインコートを着て、学校からの帰り道をてくてくと歩いていた。そのときの雨は本当に「土砂降り」という言葉がふさわしい、ビー球のような雨粒がドカドカと体にぶつかってくるような、数十センチ先が見えないような、まるで水の中を歩いているような、そういう雨だった。

 私が激しい雨のなか家路をたどっていると、突然に「おしっこ」がしたくなった。しばらくは「おしっこ」を我慢しながら歩いていたけれど、ふっと海での「はわわ〜」という快感が頭に浮かんだ。というのも、すでに私の全身はぐっしょりとぬれており、海にいるのも同然だったのである。こんなとき、道を歩きながら「おしっこ」をしたら、海と同じく「はわわ〜」と良い気持ちになれるのではないだろうか。普段だったら、いくら子供といえども家まで我慢するだろう。だが、今は海にいるのも同然だ。私は「どんな感じがするんだろう」という好奇心に勝てなかった。

 どうしてこういうつまらないことを覚えているのだろうと思うのだけれど、私はそのときの感覚をなまなまとおぼえている。ふっと膀胱をゆるめたとき、とても「はわわ〜」という感じがした。雨はすでに私の全身をぬらしつくしていた。冷え切った下腹部に、ふと温かみがさすのを感じ、それはじんわりと広がった。それは、海でやるよりずっと背徳的で、刺激的で、そして気持ちのよい行為だった。やがて、雨はすべてを流しさったが、それは「少年の忘れられない記憶」のひとつとなったのである。

Ψ

 梅雨になると、そんなことを思い出す。降りしきる雨を窓からながめながら、あの「はわわ〜」は気持ちよかったよなあ、などと渋く物思いにふける私の横顔は素敵だ。もちろん、もう私は大人だから、当時と同じような状況になっても「はわわ〜」をやったりはしない。いくらやりたいと思っても、やはり大人が「はわわ〜」をやってしまうのは、さすがにまずいと思う。両親に泣かれるというぐらいではすまないだろう。それぐらいならたいしたことはないが、万が一、知り合いに見られたりしたらどうなることだろう。

 こればかりは、水に流してもらえそうもない。




名は体、体は名
2001.06.11

 ところで、物忘れが良くなる病気に「アルツハイマー病」というのがあるけれど、あの「アルツハイマー」というのは人名なのだろうか。名前の系統としては、「アルプスの少女ハイジ」に出てくるロッテンマイヤーだとか、サッカー選手のベッケンバウアーだとかと、同じである。そういう名前があるのなら、アルツハイマーという名前があってもおかしくない。

 だとすると、アルツハイマー氏は、
「こんにちは、アルツハイマーです」
 なんていうふうに自己紹介をするのだろうか。それだと、妙な誤解をされたりしないだろうか。言ってみれば、私の名前が「糖尿太郎」だったとして、
「はじめまして、糖尿です」
 と挨拶するようなものなのではないだろうか。

 古くから「名は体をあらわす」という。名前というのは単に記号に過ぎないわけではなく、どことなく、その人の人格や経歴を表すように感じるものだ。たとえば「西園寺」とか「綾小路」とかいう姓であれば、その人物はなんとなく「やんごとなき人」という感じがする。一般に、画数の多い苗字にはそういう傾向がある(「綾倉」などの例外もある)。

 他にも思いつくままに挙げれば、「西条」とくればなんとなく「エリート」という感じがするし、「五郎」「小十郎」などと名前に五の倍数が入っている場合は「世に埋もれた天才」という気がする。「綾子」「響子」などは「しっかりものの美人」と感じるし、「月子」「雪子」などは「おっとりした美人」ではないかと思う。

 それらは、こちらの勝手な思い込みなのだから、実際には例外だらけなわけだけれど、たとえば小説中の登場人物などに使われている場合、名前からその人物の役どころが推測できて便利である。自慢ではないが、「小説中の登場人物の名前の見分け」というのは私の最も不得意とするところのひとつだ。私は、かの大作「罪と罰」を読んだときも、主役級人物の「ラズミーヒン」と「ラスコーリニコフ」が最後まで区別できなかった男である。なぜこの「ラ」のつく人は人格や職業が変わるのだろうと混乱していたぐらいだ。

 日本の作品でも、谷崎潤一郎の「細雪」などは名前の見分けが特一級に難しい。主な登場人物は蒔岡鶴子、幸子、雪子、妙子であり、当然のごとく私は読んでいる途中で誰が誰だかわからなくなって、挫折した。これらの名前からは、かろうじて「雪子」にイメージが浮かぶぐらいで、あとは、どれほど努力しても幸子がバナナを半分しか食べられないであろうということぐらいしかわからない。このような名前で四姉妹を区別させようというのに無理がある。そういうのを読むと、「もっと体をあらわすような名を使ってほしいものだ」と思うのである。「ドラえもん」のように、あからさまにわかりやすすぎるようなネーミングもどうかと思うが(特に「ジャイ子」というのはどうかと思うが)、多少は考慮してほしい。

 そういうわけで、名前というものは非常に重要なのである。もっとも、忘れてはいけないのは、名前が良いからといって中身が伴うわけではないということだ。それどころか、中身が伴っていないと、勝手に名前を変えられてしまうこともある。私の最近の愛称は「アルツハイマーさん」である。




親愛なるクローン
2001.05.25

 もし自分の非オリジナルがいたら、という仮定は、もし人生をやりなおせたら、という仮定と大きく重なるところがある。自分とほぼ同じような存在が、自分とほぼ同じような生活を送るのを想像したってしょうがない。どうせなら、非オリジナルは同形異種の存在であってほしいものだろう。

 では、自分とまったく違う生活とはいったいどんなものであるかと想像すると、これがなかなか思いつかないのである。いや、思いつくといえば思いつくのだが、自分がそんな奇妙な生活をしていることを、自分が納得できない、とでもいうのだろうか。

 たとえば、ジェームス・ボンド(007)のような生活がある。スリルがあって、ハプニングがあって、色気がある。そんな生活を送っている自分が存在しうるのであろうか。そのへんは、やってみないとわからない。ただ、私の脳内シミュレーションでは、どうにもそれらしくならない。とりあえず、私は非オリジナルに手紙を書く。

親愛なる非オリジナルへ。

これからは、スリルがあって、ハプニングがあって、色気がある。そんな人生を送ってください。

 まあ、非オリジナルのほうも私の気持ちをわかってくれるだろうから、なんとか努力ぐらいはしてくれると思う。しばらくして、非オリジナルから返事が返ってくる。

親愛なるオリジナルへ。

下着ドロになりました。

 たぶん、こんな感じだろう。確かにスリルもハプニングも色気もある。もっと自分の非オリジナルを買いかぶってあげてもよさそうなものだが、もとのオリジナルがアレだからどうしようもない。もうちょっとアレじゃなかったらいいとは思うのだけれど。

 だが、そんなことでよいのだろうか。人間はもっと前向きでなければならないのではないだろうか。そう自分に言い聞かせる。気をとりなおして、私は再び非オリジナルに手紙を書く。

親愛なる非オリジナルへ。

ちょっと私の考えているのと違います。オリジナルはアレだけど、あなたはもうちょっと頑張ってください。

 非オリジナルは私の気持ちを察することに長けているから、私が何を望んでいるのか、自分のことのようにわかってくれるだろう。要は、向上心である。小学校の通信簿では「向上心」と「整理せいとん」の評価がいつも△だった私だけれど、非オリジナルには同じ轍を踏ませたいとは思わない。そんな私の親心を察した非オリジナルは、きっと一念発起してオリジナルにはないような向上心を見せてくれるだろう。しばらくして、非オリジナルから返事が返ってくる。

親愛なるオリジナルへ。

下着、かぶってみました。




咳をしてもひとり
2001.04.21

 どうやら春風邪を引いてしまったようである。「はるかぜ」と口に出してみれば、どっきりどんどん不思議な力がわいてきそうな爽やかな響きを持っているが、そんなのんきなものではない。セキは止まらないし、頭はガツンガツンと痛むし、たまったものではない。

 それにしても無念なのはこの私の病弱な身体である。調べてみると、以前に風邪をひいたのはほんの四ヶ月ほど前である。よほど風邪ウイルスは私が好きなのだろうか。なぜ風邪ウイルスは私にまとわりつくのか。私にはウイルスにのみ作用するようなフェロモンが備わっているのだろうか。

 春に風邪をひくというのは、冬にひくのと違って不愉快なことが多い。冬の風邪は、まるで珍しくないから誰もたいして気にしないが、春の風邪はいらぬ注意をひいてしまう。悪くすれば、ちょうど暖かくなってきた時期だけに「夜中に素っ裸で公園をうろついていたんじゃないのか?」などとあらぬ疑いをもたれてしまうのである。まったく、名誉毀損もいいところだ。私にだって、靴下をはくぐらいの慎みはあるのである。

 そもそも、風邪によいところがあるとすればそれは「人に伝染すことができる」ということだ。たとえば腹痛や寝違えなどは人に伝染すことができない。だから、ちっとも楽しくない。つらい思いをするのが自分だけなんて、非常に理不尽である。しかし、風邪はセキやくしゃみやウイルス混入によって、他人へと伝染すことができる。風邪にかかったときの数少ない救いのひとつである。

 ところが、一般に風邪というのは空気が乾燥しているときに伝染する。春先の、空気がぬるくなってきたような時期には、そう簡単に伝染すことができない。人間というのは冷淡なものだから、自分が伝染されるかもしれないという懸念があれば、たとえ表面上だけにしても心配をするふりをするものだ。ところが、自分が伝染されないと思えば、鼻にもひっかけないことが多い。今なら「咳をしてもひとり」という句を残した俳人の気持ちがよくわかる。

 要するに、風邪をひくにはそれに適した時期があるということだ。冬以外にひく風邪には、冬に食べるそうめんぐらいの価値しかないのである。春に風邪などをひいている場合ではない。人は、冬場に風邪をひくために最大限の努力をしなければならない。冬は寒いからと公園に行くのを躊躇している場合ではない。




春の手紙
2001.04.15

 拝啓

 四月も半ばをすぎました。お元気ですか。

 私は春という季節が好きです。すべての季節から好きな季節を選んだとき、五本の指にはいるぐらいに春という季節を慕っています。残念ながらベスト3に入れるほどではないのですが、それでもそれなりに春が好きです。

 春だから、辞書で「春」をひいてみました(いつもそんなことをしているわけではありません)。春をつかったことばには、「春の目覚め」というものがありました。引用しますと、「青春期になって、性欲を感ずる情態になること。春機発動」とありました。この「春機発動」というところで、思わず笑ってしまいました。「春機発動」って、なんだか格好良くありませんか? 年頃の男の子が「春機発動ッ!」と叫んで発情するようすが目に浮かんで、ほほえましくなりました。なんだか不気味ですね、私は。

 春が嫌いな人もいます。たとえば花粉症の人などはあまり春を好ましく思っていないんじゃないかと思います。そんな人たちにとっては、今は苦難の季節でしょう。街でも大きなマスクをつけた人を、よく見かけます。マスクをしたのは小学生のとき給食当番になったときぐらいという私は、なんだか申し訳ないように思います。

 それにしても、マスクというのは似合う人と似合わない人がいますね。口と鼻が隠れてしまうわけですから、目の印象が全てになります。きりりとした眉と瞳を持つ人は、マスクがよく似合うと思います。いっそ、一年中マスクをしていたほうがいいのではないかと思ったりもします。一方で、どんよりとした目の人がマスクをつけていると、思わず警察に通報したくなっちゃいますね。

 他にも春を好ましく思わない人はいると思います。使い古された言葉ですが、春は別れの季節です。思い出の風景、親しい人、愛着ある持ち物、臭い枕など、さまざまなものとの別れを告げなければなりません。そして、見知らぬ土地で、一から自分をつくっていかなければなりません。当事者にとっては大変なことだろうと思います。

 そんなふうに新しい環境でとまどっている人がいたら、どうぞ優しく声をかけてあげてください。それが異性だったりしたら、絶好のチャンスですよ。「この時期は花粉症がつらいですね」なんてさりげない話題で、徐々に親しくなっていきましょう。そして、四月も半ばをすぎたころ、突然「春機発動ッ!」なんていいながら押し倒してしまいましょう。

 春は別れの季節ですね。




あいまいな境界線
2001.03.28

 果物と野菜をどこで分けるか。そのことに、多くの人は頭を悩ませる。それというのも、トマトやらユズやらクリやらウメやら、果物か野菜かはっきりしないものがたくさんあるからで、人それぞれに自分なりの分類をするものの、その分類に確信を持っている人はほとんどいないのである。同じように境界線があいまいなものに「セーターとカーディガン」「テロリストと自由戦士」「妄想と現実」などが挙げられる。

 むろん、果物と野菜を明確に分ける方法はある。果物あるいは野菜を定義することができれば、その定義にそって二者を分けることができる。その点、幼い子どもは単純である。『甘いほうが果物である』『色鮮やかなほうが果物である』などと、気楽に定義してしまう。しかし、言うまでもなくこれらの定義はまちがっている。

 世の中には甘くない果物(レモンなど)もあれば、色鮮やかでない果物(イチジクなど)もある。甘くもなく色鮮やかでもない果物すらあるのだ(イチジクとレモンの合成食品など)。要は、果物と野菜を定義するのはそれほど簡単なことではないということだ。もっと学術的なアプローチが必要になるであろう。だからといって、ここで植物分類学の講釈をするつもりはない。なぜなら、第一にそれは煩雑であり、第二にそれは非実用的であり、第三によく知らないからである。定義はすべからく単純でなければならない。

 この問題について、友人と議論する機会があった。彼はわが国における植物分類学の第一人者であり、殊に植物と野菜の分類に関しては誰一人およぶ者がないと言われるような人とは特に関係のない、ごく普通の男である。我々は舌鋒を交え、はたして果物あるいは野菜の定義はなんぞやと思案し、実に二時間ものあいだ議論を交わしたのであった(途中休憩の一時間五十分を含む)。

 結果、私と彼が得た結論は異なったものであった。私は『果物とはおにぎりの具にならないものである』と定義した。彼は『果物とはお弁当箱に入っていて嬉しいものである』と定義した。いずれも甲乙つけがたい。そこで冷静な第三者に判定を求めることにした。ただし、どちらか一方のみの知り合いだと、その判断が偏ってしまう恐れがある(私の知り合いなら私の考えを支持したりはしない)。そこで、私も彼も知らない知り合いを探すことにしたのだが、残念なことに、私も彼も知らない知り合いは見つからなかった(知らない人はたくさんいるはずなのに、なぜだろう)。やむをえず、次善の策として私も彼も知っている知り合い(仮にA氏とする)に電話をした。我々の交わした議論を伝え、どちらの定義がより優れているのかを判定してもらうよう頼んだ。A氏はしばし黙考したあと、電話を切ってしまった。

 結局、結論は出なかった。私と彼は「引き分け」ということで議論をおさめることにした。根拠はないが、ほとんど私の勝ちに等しい引き分けだと思う。彼は負けに等しい引き分けに打ちのめされているかと思ったが、それなりに満足そうな顔をしている。ひょっとしたら、根拠もないくせに「自分の勝ちだ」と思っているのかもしれない。こんなあいまいなことでよいのだろうか。




エレメンタルアンケートの結果
2001.03.05

先日はアンケートにご協力いただきありがとうございました。以下に集計された結果をお知らせします。

●性別を教えてください。

女性…81%
男性…9%
急性…5%
悪性…3%
相対性…2%

●職業を教えてください。

サラリーマン…4%
大学生…3%
主婦…3%
スマップ…90%

●在住している都道府県を教えてください。

香川県…99%
わからない…1%

●年齢を教えてください。

奇数…50%
偶数…50%

●このサイトをどこで知りましたか。

新聞で…0%
雑誌で…0%
ラジオで…0%
テレビで…0%
イベントで…0%
車内吊り広告で…0%
街の噂で…0%
神の啓示で…0%
遺伝で…0%
ブランデー…0%
いつかどこかで…100%

●次回作に追加して欲しい内容を教えてください。

香川県…99%
わからない…1%

●サイトをご覧になる目的を教えてください。

就職準備に…1%
仕事の上で必要…2%
常識・教養を身につけるため…1%
ニュース・時事問題を理解するため…3%
人生には無為に過ごす時間が必要だと思っているため…93%

●このサイトは10点満点で何点ですか。

評価不能(良い意味で)…0%
評価不能(悪い意味で)…100%


以上、たいへん参考になりませんでした。




そう明日は晴れ
2001.02.23

 天気予報のナレーションをしている人のことを何て呼んだらいいのかわからないので、仮に「天気マン」としておくけれど、あれはあれでけっこうストレスのたまる仕事なのだろうなと思う。夜の九時ごろに明日の天気がテレビに流れたのだけれど、明日の天気はどこもかしこも晴れだった。天気マンは「明日の大阪は…晴れでしょう。明日の京都は…晴れでしょう。明日の滋賀は…晴れでしょう。明日の三重は…晴れでしょう。」と延々と晴れでしょう晴れでしょうとしゃべっていた。

 彼は必死に自分の感情を押し殺して、淡々とした口調で「晴れでしょう」なんて言っていたけれど、私には彼の気持ちが痛いほどにわかった。ちくしょー、オレはなんでこんなに晴れでしょうばっかり言ってるんだよ。晴れでしょう晴れでしょうってオレは晴れでしょう星人か。あー、この天気予報を聞いてるやつはオレのこと晴れが好きだとか思ってるんだろうな。オレだってこんなに晴れでしょうばっかり言いたかねえよ。と、彼がそんなふうに思っていることが手に取るようにわかった。

 天気マンにとっては晴れ晴れ言うのは不本意だろう。もっと激しい変化をつけたいのだろうと思う。たとえ明日が一日中日本中晴れだとしても、「明日は晴れでしょう」だけで終わってしまってはおもしろくもなんともない。「午後三時ごろまでは晴れ、明け方も晴れでしょう。朝のうち晴れ、昼前からも晴れ、昼過ぎからも晴れるでしょう。夕方は晴れ、宵のうちには晴れ、夜遅くからは晴れきっています」ぐらいは言いたかろうと思う。本当は「晴れ」というのもやめて、いっそ全然違う予報をしてやろうとすら思っているのだけれど、そこは仕事だからぐっと我慢をする。

 日本はまだましなほうだろう。それなりに天気の変化がある。砂漠の天気マンは、きっとストレスで爆発寸前だろう。毎日が晴れだ。シベリアに住む人たちには雪を表す単語が数十種類もあるという。しかし、晴れでは変化のつけようがない。雲ひとつない青空を見て、いったい何を言えというのだろう。「来年は晴れでしょう。季節によっては雨季でしょう」ぐらいで十分だ。

 個人的には天気マンに深く同情するけれど、それでも視聴者としては「我慢してください。がんばれ」というしかない。放送中に突然「あー、こんな仕事やってらんねーよ。テメー晴れ晴れって言ってるオレのことおめでたいとか思ってやがんな。オレだって落ち込むことのひとつやふたつはあるんだよ。今日も朝っぱらから課長が『ハレてきたなあ…腫瘍が』なんて笑えねぇギャグを飛ばすから嫌な気分になってんだよ。オレは繊細なんだよ。耳掃除してたらでかい耳クソが取れたって一日中幸せそうな顔をできるお前とはレベルが違うんだよ!」なんて言われても、私にはどうしようもない。

 でもまあ、どうしても我慢できないのだったら、一年に一回ぐらいはそういう日があってもいいんじゃないかと思う。でないと、彼があまりにもかわいそうだ。年に一度ブレイクする日。それが彼の晴れの日だ。




ウはうろ覚えのウ
2001.02.21

 英単語がなかなか覚えられなくて苦しんだ経験を持つ人は多いだろう。「 cat 」や「 dog 」といった単純な単語ならまだしも、「 incomprehensible 」などといった極めて複雑な単語にでもなると「理解しがたい」とでも言うしかない。

 普段は覚える必要性がなくても、たとえば試験前ともなるとそうはいかない。たとえ覚えがたい単語であろうとも、なんとかして覚えてしまわなければならない。この私も同じような悩みを抱えていたこともあった。しかし、そのようなつまらない悩みをいつまでも抱えている私ではない。森鴎外は『ヰタ・セクスアリス』のなかで「人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない」と書いているが、鴎外ほどの人物にとって「英単語が覚えられない」などというのは思わす笑っちゃうような悩みなのである。こんなつまらないことで悩むのは、凡俗の人間がやることなのである。私も鴎外と同じく、暗記で悩んだりはしなかった。「暗記パンがあればなあ」と思いながら、はやばやと全てを諦めてしまったのである。

 とはいえ、いつもいつも諦めていたわけではない。ときには執念深く暗記をすることもあった。私が愛用していたのは「連結式暗記法」と名づけられた由緒正しい暗記法である。私が勝手にそう名づけた。

 もう少し詳しく言うと、たとえば「environment(環境)」という単語がある。暗記者にとっての目的は「environment」と「環境」を結びつけることであるが、どう考えてもこのふたつは結びつきそうにない。そこを無理やり結びつけてしまうのである。

 まず「environment」を口に出してみる。「えんびろーんめんと」である。最も特徴があるのは「びろーん」の部分なので、そこに注目をする。「びろーん」とするものは「鼻の下」だ。「鼻の下」にあるのは「髭」だ。「髭」を持っているのは「船長」だ。「船長」がいるのは「艦橋」だ。と、見事に「environment」と「艦橋」がつながってしまうのである。

 他に、たとえば「correspondence(通信・手紙)」という単語がある。「correspondence」を読めば「これです。ポンです」となる(強引)。「これです。ポンです」とくれば、容易に手紙をポストにポンといれる情景が浮かび上がってくるだろう(無理矢理)。こんなふうにして、またひとつの単語を覚えることができるのである。

 この方法が簡単にできる単語もある。「impossible(不可能な)」などは非常に簡単だった。私が「impossible」と「不可能な」をどうつなげたかは容易に想像することができるだろう。一方、「serious(本気の・まじめな)」は難しかった。「serious」を「尻アス」から始めてしまうと、どうやっても「本気の・まじめな」に結びつかなくて困った。

 そのようにして私は数多くの単語を覚えてきた。この方法で私が暗記した単語は十指が余るほどもある。この方法を用いれば、英語の試験などは恐れるに足らずである。猫の額のように広い心を持つ私は、今この「連結式暗記法」を広く世の中に公開する。アイデア料やチョサッケン料などを徴収するつもりはないので、自由に使われると良い。この「連結式暗記法」の欠点といえば、暗記することが余計に増えるということぐらいだ。




空も飛べるはず
2001.01.15

 「想像力の限界」という言葉がある。しかし、人間は「ウンコ味のカレー」や「カレー味のウンコ」すら容易に想像してしまう。その気になれば「ウンコ味のカレー風味のグラタン」や「ウンコ味の私」なども想像することができるだろう。はたして本当に「想像力の限界」などというものが存在するのであろうか。

 人はさまざまなことを想像する。楽しいことや悲しいことや怖いことなど、想像する範囲は広い。私は「人間コンピュータ」と呼ばれるほどリアリスティックな男だが(正確には「人間コンビーフ」だが細かいことはどうでもよい)、それでも想像力を持っている。ふだんから色々なことを想像する。「ランドセルが突然ジェット噴射して飛んでいった小学生の表情」とか「ふと窓を見たらエスカレーターのパントマイムをしている人がいたときの恐怖」とか、それなりに難しいことを想像する。だが、いまだに「想像力の限界」に達したことはない。

 「想像力の限界」というからには「これ以上想像できない、ぎりぎりの領域」であるだろう。いったいどの領域がそれにあたるのかはわかりにくい。ここは段階をおって考えるべきだろう。何かについて想像をする。そして、次第に難しい想像に進めていく。「これ以上は想像できない」という段階に達したら、そこが「想像力の限界」だ。目の前にパソコンがあるので、それに関して想像を進めていくことにする。

「普通のパソコン」

 これは想像するまでもない。目の前にあるのだから、それが普通のパソコンだ。「想像力の限界」まではまだまだ遠い。

「突然笑い出すパソコン」

 この程度ならまだまだ簡単に想像することができる。たぶん、誰だって想像をすることができるだろう。その笑い声まで想像することができる。そのときの私のあっけにとられた表情だって想像することもできる。あっけにとられていてもかっこいい。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコン」

 まだまだ「想像力の限界」は遠い。これぐらいなら朝飯前とはいわないけれど、それほど難しくはない。こんな調子で「想像力の限界」に達することができるのだろうか。どうやら、もっと複雑に難しくしなければいけないようだ。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコンの産卵」

 一気に難しくなった。いったいどこから卵を産むのだろう。卵を産むのにふさわしいのは、パソコン前面部のイヤホン端子穴ぐらいしかない。ここから卵が出てくるのだろうか。ずいぶん小さい卵だ。それともカエルの卵のようにウニョウニョと出てくるのか。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコンの産卵を見て涙をながすおっさん」

 これはかなり「想像力の限界」まで近付いているのではないだろうか。ただのおっさんの涙でもそれなりに難しいが、この想像にはさらに難しい要素が加わっている。ややもすれば「オレは何を想像しているんだ」と叫び出しそうになるのをおさえつつ想像を続けなければならない。果てして次の段階に進めるだろうか。

「突然笑い出して怪光線を出すパソコンの産卵を見て涙をながすおっさんからのビデオレター」

 ここらあたりが限界か。もうこの時点で想像するのがかなり困難になっている。はっきりいって、この時点でおっさんが克明に想像できる人は、自分自身が想像力の産物でないか確かめたほうがいい。少なくとも私が想像できるのはここまでだ。

 …そうすると、これが「想像力の限界」というやつなのか。意外と人間の想像力などたいしたことがないみたいだ。それとも、人間の想像力があまりに暴走しないよう、ある程度におさえられているのだろうか。ひょっとしたら、「想像力の限界」を超えてしまうと、現実と想像の区別がつかなくなってしまうのかな。

 ねえ、おっさん。




新年のごあいさつと長い前置き
2001.01.03

 小さいころ中耳炎にかかったことがある。それで医者にかかったのだけれど、そのとき「鼻がつまっているのがよくない」というようなことを言われて、鼻づまりを取ってもらうことになった。どうやるかというと、鼻の穴に二本のチューブを突っ込んで、食塩水を流し込むのである。そうすると、逆流した鼻水が食塩水とともに口から流れ出してくるのだ。

 絵的には変な感じもするが、これが思った以上に気持ちよいのである。おそらく同じ経験をした人もわりといるだろうから、その気持ちよさがわかってもらえることだろうと思う。聞いた話では、そのようなことを家庭でも行えるような器具が発売されているらしい。私は買っていないけれど、結構売れてるんじゃないだろうかと思う。お客さんが来たときなんかも「ひとつすっきりしてみませんか」なんて感じでもてなせるし、外出時に持ち歩けば「おねえさん、いっしょに口から鼻水出しませんか」なんて気軽に声をかけることができると思う。

 基本的に、身体から排泄物や老廃物を取り除くのは気持ちいい。もちろん、世の中には私の想像も及ばないような趣味の持ち主がいるのだろうけど(三段腹に挟まった垢を見ると興奮するとか)、たいていの人はそういう行為を気持ちよく感じているのではなかろうかと思う。鼻の毛穴に詰まった老廃物を取り除く「毛穴すっきりパック」や、眼球をすっきりさせたければ「アイボン」などは、ちょっとしたヒット商品になっている。

 あと、口の中はこれといった商品がないけれど、古くから「歯ブラシ」というものがあるし、たいていの飲食店には「つまようじ」が置かれていて口の中をすっきりさせようと待ち構えている。「浣腸」なんかも「すっきり商品」のロングセラーだろう。あれにはいろんな楽しみかたがあるけれども、基本はやはり「腸をすっきりしたい」という願望から生まれてきたものだと思う。

 と、ここまで読んで多くの人が思うことだろうけど、「耳」に関する分野が極端に劣っているのである。むろん、「耳かき」「綿棒」というロングセラー商品があるけれども、本当にあれで「すっきりした」と思うかといえば、どこか物足りない人が多いのではなかろうか。いわば「すっきり商品」の最後の砦が耳に関する商品なのだ。

 中耳炎の治療で「鼻づまり」は治ったけれども、肝心の耳はあまりいじってもらえなかった。右耳から食塩水を注入すると、左耳から脳漿が流れ出てくるとか、そういうすごい器具があるのかと言えば、ないのである。耳というのは、なかなか「すごくすっきり」という実感を味わうことができない。私はわりと耳かきが好きだから、毎夜毎夜耳に耳かきを突っ込んでいるけれども、掘り尽くしたという充実感を味わったことはない。

 そういうわけで、耳垢をすっかり取り除くことができるような器具ができればすごく売れるのではないかと思う。と言うのは簡単だけれど、つくるのは難しい。耳はひどく脳に近いので、うっかりすると鼓膜を突き破って昇天してしまうかもしれない。どこの企業だって、「全自動耳垢取り除き装置」なんてものを発売するだけの勇気はないと思う(発売されたとしたら、私はそれをはじめて人体実験した人に拍手を送りたい)。

 ではどうすれば「すごくすっきり」という感覚を味わえるのかといえば、私の考えるのは「取り外し可能耳」だ。どうも、そうでもしないと耳を満足いくまで綺麗にすることはできないのではないかと思うのだ。どうすればそんなことができるのかは専門家に任せるとして、耳をカコッと取り外して掃除することができれば、さぞかしすっきりするのではなかろうかと思うのだ。そして入念に掃除をしたあと、新品のような耳を再び取り付ける。もう、想像しただけで気持ちよくて叫びたくなる。

「ア・ハッピー・ニュー・イヤー!」

 そういうわけで、今年もよろしく。




コレクター
2000.12.23

 世の中にはコレクターと呼ばれる人がいて、何をするかというと、ものを集めるのである。当たり前だ。しかし、その集めるものというのはあまり当たり前ではない。マッチ箱とか割り箸の袋とか本のしおりとか、実にどうでもよさげなものを集めるのである。そういうコレクションを見せられると、よほど家庭がうまくいっていないのかと心配になってしまう。とにかく、そんなふうにものを集めるのがコレクターである。

 とはいえ、ものをたくさん持っている人が、みんなコレクターかといえば、そんなことはない。コレクターがコレクターであるためにはいくつか条件がある。まず、コレクターたるためには「ものを集める意思」がなければいけない。自然に集まってくるようなものをたくさん持っていても、あまりコレクターとは言われない。たとえば歳をとると病院へ行ったときたくさんの薬をもらうけれども、これはコレクターではない。勝手に医者が種類を決めるのだから、その人に「薬を集める意思」がないからである。また、夏にキャンプなどをすると異常なほどに周囲に蚊を集めてしまう人がいるけれど、これもコレクターではない。その人に「蚊を集める意思」がないからである。さらに、私が街を歩くと異常なほどに女どもが集まってくるけれど、これもコレクターではない。ただの妄想だからである。

 コレクターたるためには「ものを集める意思」だけではいけなくて、さらに「ものを愛でる意思」がなければならない。たとえばリンゴ農園のおじさんはリンゴを育てて実ったリンゴを集めているけれども、それはコレクターではない。もちろん集めたリンゴに愛着はあるのだろうけど、それは自然な感情の発露であってコレクターの持つ愛着とは違う。コレクターにとっての愛着はもっと粘着質だ。おじさんにとっての愛着が砂漠のオアシスを見つけたときのようなものだとすれば、コレクターにとっての愛着は砂漠で砂地獄に入ったときのようなものだ。ずぶずぶとのめりこむように抱きしめるようにからみつくように愛するである。そうでなければコレクターとはいえない。

 そうやって「ものを集める意思」と「ものを愛でる意思」というものがあって、ようやくコレクターとしては半人前というところで、あとは「ものを評価する能力」というのが必要になってくる。これはコレクターじゃなくてもたいていの人が持っている能力なのだけれど、やはり能力だけに高い人と低い人がいる。高い人はものの価値がよくわかっているひとだから、つまらないものを集めたりはしない。時計とか宝石とか稀覯本とか、一般の人にも訴求力があるようなものを集める。能力の低い人は、何を考えているのかわからない。非常につまらないものを集める。空き缶とか女性の枝毛とか瓶詰めの蛇とか、スレスレのものばかり集める。そういう人たちは自分の「ものを評価する能力」が低いとは思わないで、自分が不当におとしめられているだけだと思い込むようにしている。

 で、どちらがコレクターとして上なのかといえば、もちろん後者だ。言わせてもらえば、前者のほうは何の独創性もない。ただ、価値があるといわれているものを集めているだけだ。しかし後者は違う。周囲の偏見と内面からわきでてくる疑問を押さえつつ、強い意志ととほうもない労力を費やしてものを集めているのである。後者こそが人類の文化をその土台から支えてきたといっても過言だろう。

 そんなふうにいくつかの条件を満たしてやっとコレクターになれたとしても、いつまでもコレクターでいられるとは限らない。いろいろな出来事によって、コレクターを廃業することを余儀なくされることはよくある。結婚とか就職とか、そういった人生の転機で挫折するコレクターはよくいる。また、人生観や価値観が変わると、いままで集めていたものがクズ同然に見えてしまうこともある(実際にはクズ以下なのだが、そこまでは気づかない)。周囲に反対されて挫折する人もいる。人はそうして大人になっていくのである。そういうわけで、一生をコレクターとして過ごす人は少ない。実際、一生をコレクターとして過ごすことは、周囲が妙な趣味に理解があって、人生の転機(結婚、就職など)がおよそ一度もなくて、いつまでたってもクズ同然のものを宝と思えるような、選ばれし人間のみに許されることなのである。

 できることなら選ばれたくないものだ。




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