07:00 【N】今日の出来事
専属占星術師が予言する今日の出来事。
今日も朝から嫌な気分にさせてくれる予言が満載!
08:00 モーニング朝!
仔犬特集。今回もかわいいワンちゃんが勢ぞろい。真顔で嘘をつくワンちゃん。プライドが邪魔をして素直に甘えることができないワンちゃん。どうせ手に入らないのならいっそ何もかも壊してしまいたいと考えているワンちゃんなど。
09:00 三時間クッキング
本日のメニュー「肉塊」
12:00 笑っている場合じゃないとも!
アイロンの切り忘れでマンションが全焼しました。
笑っている場合じゃないとも!
13:00 クイズ アタッカー25
史上最強のグランドチャンピオンが人類の誇りを賭けてチンパンジーに挑む。はたして勝負の行方は!?
14:00 【新】トレビアンの泉
思わず「ふーん…、それで?」と言ってしまう雑学・豆知識を一挙大公開。▽熱いお風呂に入るときは、水でうめると熱くないよ▽おいしいものはつい食べ過ぎちゃうけど、食べ過ぎると太っちゃうぞ▽スティックのりはリップスティックと似ているけど間違えちゃダメ、など
15:00 【ドラマ】【再】窓際刑事
都内で次々に起こる殺人事件。そして、ゼロを名乗る殺人鬼からの予告状が湾岸署に送られてきた。湾岸署員は総動員体制で次なるゼロの犯罪を防ごうとする。だが、そんな事件が起こっていることすら知らせてもらえない窓際刑事山下さんの日曜ゴルフコンペの様子をお楽しみください。
16:00 えっ、オレだけの水泳大会!?
大好評の「オレだけ!?」シリーズ。前回の「オレだけの入学式」「オレだけの新歓コンパ」にひきつづき、オレだけの水泳大会に挑む! オレだけしか見てません!
17:00 【アニメ】ドラえもん
17:30 【アニメ】スネ夫
18:00 【スポーツ】野球中継 阪神×巨人
同時中継:はじめてのおつかい
20:00 【映画】マトリックスはつらいよ
前作から一年。救世主ネオの隠された性癖とは!? 100人家族スミス一家の食卓を興味本位で公開! トリニティーののんびり温泉ツアーと、それを必死で覗こうとするモーフィアス! ディレクターズカットとモザイクを加えた完全版で地上波初登場!
22:00 【ドラマ】【通販】TVショッピング・ラブ・ストーリー
第十二話「こんなラックが欲しかった」
23:00 【N】プロ卓球ニュース
00:10 【スポーツ】サッカー中継 日本代表×香川代表
中継:サンチャゴ・ベルナベウ・スタジアム
02:00 今日の放送事故
関係者全員総土下座。はたして、この放送局は明日まで存続するのか。
いよいよ目が離せない!?
かつて我が国では「口出し芸」と呼ばれる一種の民俗芸能が広く親しまれていた。他人の会話に口をはさむ「口出し」ではなく、文字通り口から何かを出すという意味の「口出し」だ。現在でも人間ポンプ芸人や手品師の一部に伝わっているものの、少しづつそれは廃れつつあり、その継承者は少数を残すのみである。
口から出すものといえば、まずは「言葉」や「ため息」という無形のものが思い浮かぶが、それらは口出し芸人にとって問題にもならない。むろん、「吐瀉物」「吐血」といったものも論外だ。それらが耳から飛び出してきたのならともかく、口から飛び出すのでは、どうということもない。誰もが驚くようなものを出してこその芸である。口から何かを出すなどたいしたことではないという人もいるかもしれないが、芸を見れば、内心そうだと思い込んでいたことを恥じるだろう。なにしろ、彼らは我々が予想すらしていなかったものを出してくるのだから。
今でも、某会館の地下室で密かに催されている裏の演芸大会の演目のひとつに「口出し芸」は残っている。数少ない口出し芸の継承者たちが、ごく少数の観客を相手に、日ごろ鍛え上げられた芸を披露しているのである。
ある者は口から寄生虫がぴょこんと顔を出して挨拶をする。ある者は口から心臓が飛び出して挨拶をする。達人が牛肉とジャガイモを飲み込めば、口から湯気のたつ肉ジャガが出てきて挨拶をする。いったいどうやっているのかはわからないが、口出し芸の奥の深さを感じさせる。
むろん、最後を飾る技は、やはり「カエルの大合唱」であろう。なにしろ、この芸には手間がかかっている。三年前に飲み込んだ、一匹のおたまじゃくし。それを死なぬよう、消化させぬよう、慎重に体内で成長させる。一年後、おたまじゃくしは小蛙になり、二年後、中蛙になる。そして今日、大蛙が三年の時を経て、初めて口から顔を出す。蛙は急に観客の前にひきだされて、とまどったように一鳴きする。そこで、演者が静かに告げる。
「これが本当の『胃の中の蛙、大会を知らず』です」
会場の盛り下がりはピークに達し、あまりの悪趣味に会場のそこかしこで観客が嘔吐しはじめて完成する大技である。やはり、廃れて当然なのかもしれない。
もし私が小便小僧なら、多くのことで悩むだろう。
まず、存在そのものが悩みだ。自分は、いったい何のためにつくられたのだろう。なにも、あえて小便をしている姿を像にしなくても、他にも愛らしい姿はいくらでもある。好物のバームクウヘンをほおばっているときでもよいし、天使のような寝姿でもよいし、ライバルのハムスターと戦っているときでもよい。いくらでも絵になる姿があろうというのに、あえて小便をしている姿にした製作者の意図はなんなのか。私の小便をしている姿が、それほどまでに製作者の心をゆさぶったのかと思うと、複雑な思いがする。
名前のことも気になる。小便している小僧だから「小便小僧」か。もう少しなんとかならないものだろうか。これがニックネームなら、いじめられているとしか思えない。ましてや、本名だったらどうしようか。
先生「今日はみんなに転校生を紹介する。さあ、自己紹介して」
私「小便小僧です…」
そんな場面を想像するだけで、いたたまれない気持ちになる。私はそれほど悪いことをしたか。世界はそこまで私を拒むのか。
そして、なにより深刻なのは、自分の将来についてである。
「オレ、このまま大人になったらどうしよう…」
今でこそ、まだ「かわいい」などといってもらえるものの、このまま大人になってしまったら、さすがに周りの人が私を見て微笑んでくれるとは思えない。いや、微笑んでくれるかもしれないが、それがかえってつらい。大人なのに「おしっこ」のときに裸にならなければならないと思われるのも恥ずかしい。きっと、私は一生独身だろう。
考え出すと、ほかにいくらでも悩みはある。小さな子どもにとって、大きすぎる悩みばかりであり、深刻にならざるをえない。どうして、私は生まれてきたのだろう。このまま生きていかねばならないのだろうか。不安で、胸が締めつけられる。悲しくて目を伏せたとき、一粒のしずくがこぼれおちる。
ああ、この歳で、尿漏れまで。
こんにちは、『とっさのひとこと、日本語会話』の時間です。今日は「変な顔をして遊んでいるのを見られたときのとっさのひとこと」を勉強しましょう。
多くの人は、誰にも見せられないとっておきの変な顔を持っています。そして、ひとりになると、そのとっておきの変な顔をしてみて、「うわ、変」と思いながらも、そのあまりに醜い自分の顔にくすくすと笑っています。はい、隠さなくてもいいですよ。あなたはバカじゃないですよ。
その顔は、見られたら自殺すら考えなければならないような顔です。実際、ふだんは誰にも見られないように警戒しているわけですが、ひょんな拍子に見られてしまうこともあります。たとえば、エレベーターにひとりで乗っているときに思い切り変な顔をして遊んでいたら、急に扉が開いて誰かとばったり出くわしてしまったりとか。はい、私はバカじゃないですよ。
そんなとき、「あ、えっと…」と固まってしまうのでは、では気の利かないことはなはだしいわけです。ここで効果的なひとことがあれば、そのシチュエーションを逆用して、見られたことをフォローするばかりか、相手にステキな人だと思わせることも可能なのです。
それでは、レッスンです。今日は私の都合から、あなたが男性であり、女性に見られたと仮定して講義を進めていきましょう。
まずは、最初のレッスンです。このひとことには、陰影のある顔立ちが必要です。失敗した福笑いみたいな顔をしている人はあきらめましょう。成功した福笑いみたいな顔をしている人もあきらめましょう。もし、あなたが少し影を感じさせる顔をもっていれば、見られたと気付いたときに、うつろな目をしながらつぶやいてください。
「これ、求愛行動です…」
これで、相手はイチコロです。「えっ、急にそんなこといわれちゃって、どうしよう、私。でも…、やっぱりこんな顔を見せられるのは私しかいないってこと? やだ、どきどきしちゃう……好き」となることでしょう。ひょっとして、相手は逃げ出してしまうかもしれませんが、それは照れているからなので、心配無用です。それより、後からおこなわれる事情聴取のことを心配しておいてください。
さて、上のようなロマンティックなセリフはちょっと気恥ずかしいという人もいるでしょう。そんな人のために、次はあなたの熱い思いのたけをぶつけるためのひとことをご紹介しましょう。このひとことは、顔を見られたときに、できるだけ大声で叫んでみてください。
「こんなの本当の僕じゃない!」
そう叫び、泣きながら地面を叩いてください。想像するだけでくらくらしちゃいますね。これで相手はメロメロです。あなたの悩める姿に母性本能を刺激されない女性はいません。すぐに入院手続きをとってくれることでしょう。
はい、今回は「変な顔をして遊んでいるのを見られたときのとっさのひとこと」を勉強しました。次回、この時間は、番組を「あなたは生きていてもいいのよ」に変更してお送りいたします。お楽しみに。
先日、視力検査を受けた。受けるたびに思うのだが、あれはどれくらい本気になっていいのだろう。マークが見えそうで見えないとき、素直に「見えない」というべきなのか、パンチラ・アイを使ってもいいものなのか。どれほど手加減すべきかわからず、余計なところで気をつかわされる。
思うに、上のような迷いが生じるのは、視力検査が単純に「高ければよい」というものではないからだろう。視力検査は視力を測るためにあり、それを競うものではない。実際、視力が高ければよいことばかりかといえば、たとえば鏡を見るときなどは視力が低いおかげで人生に絶望せずにすむ。
もっとも、視力は人間の基本的な身体能力のひとつであるのに、それを競わないのは不自然なことかもしれない。どれだけ速く走れるか、どれだけ重いものを持ち上げられるかなどを競う競技があるのだから、どれだけ遠くのものを見ることができるのかを競ってもよさそうなものだが、実際は、せいぜいとなりの席の人と「視力どれぐらいあった?」などといいあうくらいで、プロが実力を発揮する機会はない。
もし、視力検査の世界大会などがあれば、おそらくは視力10.0くらいのすごい人たちが競いあうことになるだろう。視力検査表を百メートルほど離れた場所に置き、無線で連絡を取り合いながら「はい、これは?」「右です」などと答えあうのだ。地味な大会である。
いや、世界大会というくらいだから、そんな牧歌的なものではすまないかもしれない。凄腕のスナイパーや、チベットの修行僧や、サバンナの狩猟民族など、世界の視力自慢が参加して、常人にはなしえない技を繰り出すことになるかもしれない。ある者は、カメレオンのように眼筋を自在にコントロールする。ある者は、びっくりすると目が数メートル飛び出す。果ては、目からビーム光線をだしたりするようになるかもしれない。
だが、それらの強敵すらも凌駕するすごい男がやってくる。そいつは、検査表を見ることすらしない。用いるのは心眼である。たとえ何キロ離れていようと、どれほど小さいマークであろうと、精神集中すればぴたりと当ててしまうのだという。もはや彼にとって、こんな大会は目じゃない。
目覚し時計は、我々の起床すべき時間を忠実に知らせてくれる。だが、一方で、我々の安眠をとだえさせてしまうともいえる。はたして、彼は我々の味方なのだろうか、敵なのだろうか。多くの人は、こんな目覚ましにどう接すればよいのかわからず、悩んでいる。我々は、彼にやさしく接するべきなのか、つめたくあたるべきなのか、ちょっぴり甘えてみるべきなのか、どうすればいいのだろうか。
私はといえば、あまり目覚ましに寛容とはいえない。そもそも、私はあまり寝起きがよいほうではない。起きてから十八時間ほどはぼんやりとしているし、起きた直後はなおさらだ。目覚ましが鳴ると一応目を覚ますものの、ひどく不機嫌である。目覚ましの役割を考えれば、「今日も起こしてくれてありがとう」ぐらいいってもばちはあたらないだろうが、思わず「うるさい!」と彼の頭を叩いてしまう。逆恨みもいいところだ。
しかし、目覚ましにも非難すべき点がないわけではない。目覚まし時計の発想は、大音量や不快音によって我々を現実世界へ呼び起こそうというものである。なかには、空気圧や電流の刺激で目を覚まさせようとするものまである。このような考えかたでは、逆恨みされて当然だろう。力ずくで人の心は動かせないのだと、非力な私は思う。
したがって、目覚ましはそのアプローチの方法を変えるべきであろう。目覚ましが正当に評価されるためには、「目覚ましに起こされた」と思わせないよう、工夫が必要である。たとえば、音量を極端に弱くして、せつなくなるような仔犬の鳴き声などを用いてみてはどうか。
時間になると、目覚ましから弱った仔犬の声がかすかに聞こえてくる。
「くぅん、くぅん…」
今にも消えてしまいそうな鳴き声である。夢うつつにそれを聞き、始めは無視しようとするが、どうにもおちつかない。がまんしきれず、ふとんからはいだす。目覚ましを見ると、カタカタと針がふるえている。思わず、目覚ましをはげます。がんばれ、目覚ましくん。病気なんかに負けるんじゃない。もっといっしょに過ごそう。神様、こいつの命を助けてくれるんだったら、なんだってします。どうか、助けてやってください。
だが、必死の祈りもむなしく、次第に弱まっていく音量。そして、最後に弱々しくひとなきし、目覚まし時計はその活動を止める。涙をこぼしながら、思わず叫ぶ。
「目覚ましくん! 死ぬんじゃない、目を覚ましてくれっ!」
お前がはやく目を覚ませ。
子ども向けのアニメを見ていたら、番組の最後にプレゼントの告知があった。はがきに住所、氏名、年齢、電話番号を書くよう指示されていたのだが、子ども向けなので画面に出るのはすべてひらがなだ。
・ じゅうしょ
・ しめい
・ ねんれい
・ でんわばんごう
それを見て、少し違和感を感じた。
「使命?」
少し考えれば、「しめい」が「氏名」であって「使命」ではないことはすぐわかることなのだけれど、子ども向けアニメなどを見ていると脳が退行して、そんなことにすら頭がまわらなくなる。それどころか「この設問で現代の子どもの意識調査をするのだろうか」「番組が子どもたちに与える影響を知りたいのだろうか」などと、設問の裏を読み取ろうとする始末だ。そんなことに頭をつかっている余裕があるのなら、半開きになっている口を閉じたほうがいい。
ところで、考えすぎかもしれないが、はたしてふつうの子どもに「しめい」が「氏名」であり「使命」ではないと気付くことができるのだろうか。私が気付くことができたのは、私が「ひょっとしたら小学生を超えるかもしれない」と評されるほど優れた頭脳の持ち主だからこそである。私より知能が劣っていると考えられる子どもは、全国に三十人はくだらないはずだ。おそらくこの番組には、そのような子どもたちから、勘違いしたはがきが次々と届いているに違いないのである。
・ わたしは世界中をお花でいっぱいにしたいです。
・ ぼくの使命はバルタンせいじんをたおす!
・ あの、ユミさんでお願いします。
ひとり「しめい」を「指名」と勘違いしているやつがいるのはともかく、こんなふうに全国から使命感に燃える子どもからのはがきが届くのである。考えただけでもわくわくするではないか。番組をつくっている人は、それらのはがきを読んで勇気づけられたり、感動したりすることだろう。そして、最も崇高なる「使命」の持ち主にプレゼントを送るのだ――といいたいところだが、残念ながら「氏名」が書かれていないので送れません。
卒業式で泣く人と泣かない人がいる。もちろん、私は泣く人だ。「卒業したら、みんなバラバラになっちゃうのかな…」。そんなふうに、猟奇殺人にまきこまれる同級生の姿を想像して、思わず涙をこぼす。
一方で、卒業式に泣かない人もいる。もちろん、人にはそれぞれの感じかたがあり、泣きたくもないのに泣かなければならない理由はない。ただ、それが単に性格上の問題ならよいが、本当は泣きたいのに卒業式があまりに陳腐で泣けないのだとしたら、卒業式運営者には猛省をうながしたい。もっと工夫をこらせば、どんなに冷めた卒業生であろうとも涙をあふれさせずにいられなくなるのだ。
「来賓のウミガメが産卵」
これは効くだろう。卒業生たちは手を握り締めて、親亀に声援をおくるに違いない。そして、親亀の流す涙につられて、思わず目をうるませるのである。無事に出産を終え海へと帰るウミガメにみんなで手をふって見送る感動のシーンもよい。問題があるとすれば、来賓がウミガメということだけだ。
「我が子をかばうため、必死で来賓の目をそらそうとする親鳥」
我が子を思う親鳥の気持ちを考え、思わず心をうたれるシーンである。この卒業式を撮影するだけで、ドキュメンタリー番組が一本とれるほどだ。問題があるとすれば、来賓が小鳥を襲うことぐらいだ。
「生き別れの校長と初めて対面する卒業生たち」
どよめく体育館。入学式のとき「強く生きろ…!」のことばとともに姿を消した校長との再会。卒業生たちは知らないが、実は校長は、卒業生たちの実の弟だという秘められた過去が…! どんな学校だ。
「催涙ガスを投擲して、機動隊が体育館に突入」
卒業生をテロリストあつかい。でも、どんな生徒でも泣く。留置所で家族と対面して、また泣く。一粒で二度おいしいお得なコース。
かように、卒業生たちを泣かせる演出にはことかかない。これらを複合することで、どんな卒業生でも涙をあふれさせて学校を卒業することだろう。ただし、嬉し涙だ。
もう今年は大丈夫だろうと思っていたら、風邪をひいた。今年は風邪をひいた人が周囲におらず、ひょっとして人類は風邪を克服しつつあるのではないかと思っていた。だが、やはり人類は風邪を克服しておらず、私は風邪をひいた。もしかして、私の周囲にいるのは人類ではないのかもしれない。
正直いって、わざわざ風邪をひいただけのことをWWWに広く公開するのはどうかと思った。意地悪な見かたをする人は、私が同情をひこうとしているのではないかと勘ぐったりするだろう。私のような繊細な心の持ち主にとって、そんなふうに疑われるのは耐え難いことだ。だから、ここで断言しておく。私はただ風邪をひいただけで、咳や熱は(それほど)つらくないし、誰かに「大丈夫ですか?」などとやさしい言葉をかけてもらおうとは(ほとんど)思っていない。おそらく「綾倉さんのことが心配で…」という少女もたくさんいるだろうが、心配無用である。私は、下手な同情をひこうとするような安い男ではないのだ。
繰り返すが、「大丈夫ですか?」「ぜひ看病させてください」「愛しています」などという言葉は一切不要である。もちろん、本当は私は高熱に苦しんでいるし、声をかけたい気持ちは痛いほどよくわかるし、人間は素直に生きるのが一番だが、どうか気をつかわないでほしい。
繰り返すが、「大丈夫ですか?」「ぜひ看病させてください」「愛しています」などという言葉は一切不要である。もちろん、本当は私は高熱に苦しんでいるし、声をかけたい気持ちは痛いほどよくわかるし、人間は素直に生きるのが一番だが、どうか気をつかわないでほしい。
繰り返すが、「大丈夫ですか?」「ぜひ看病させてください」「愛しています」などという言葉は一切不要である。もちろん、本当は私は高熱に苦しんでいるし、声をかけたい気持ちは痛いほどよくわかるし、人間は素直に生きるのが一番だが、どうか気をつかわないでほしい。
――と、何度も繰り返すと余計に気をつかわせるかもしれないので、もうやめておこう。私は、下手な同情をひこうとするような安い男ではないのだ。さて、話題を変えて…
「…ハクション!」
あ、誰かが私の噂をしているのかもしれないが、どうか気をつかわないでほしい。
こんにちは、『とっさのひとこと、日本語会話』の時間です。今日は「街で不良にからまれたときのとっさのひとこと」を勉強しましょう。
「街で不良にからまれたときのとっさのひとこと」には、大雑把に「攻撃的なひとこと」と「平和的なひとこと」があります。腕に自信がある人、血に餓えている人、頭が悪い人は「攻撃的なひとこと」を、不良を穏便にやりすごしたい人、争いが嫌いな人、頭が悪い人は「平和的なひとこと」をそれぞれ練習してください。
それでは、まず「攻撃的なひとこと」のレッスンからはじめましょう。「攻撃的なひとこと」の目的は「相手を威嚇すること」です。相手の戦意を喪失させ、こちらがいかに危険な存在であるかということを知らしめるためのひとことです。従来までは拳を鳴らし相手をにらみつけながら「かかってきな…」と静かに自信ありげに言うのが効果的とされてきましたが、最近は不良たちも慣れてきて、本当にかかってきたりするようになりました。そこで、これからはこんなひとことをつかってみましょう。
「私は孔雀ですっ!」
このとき、腕を広げてできるだけからだを大きくみせてください。また、セリフはできるかぎり大声で真剣に叫んでください。威嚇効果はばっちりです。あなたが危険な存在であるということは明らかだと思われます。恐れをなした不良どもは、背を向けて逃げ出すでしょう。普通の市民も恐れをなして逃げ出すでしょう。場合によっては「バカにしてるのか!」といわれて、よりひどく痛めつけられる可能性もありますが、その確率はせいぜい96パーセントほどです。そのときは運が悪かったのだと思ってください。
さて、次は「平和的なひとこと」についてのレッスンです。「平和的なひとこと」の役割は「相手の気持ちをやわらげること」です。相手の神経を逆なでしたり、生意気だと思われるような言動をとってはいけません。たとえば、三歳にもならないような子ども相手に本気の喧嘩をしかけようという人間は誰もいないでしょう。むしろ、優しく接してくれるはずです。それと同じ気持ちを相手に感じさせればよいのです。そのためのとっておきのひとことがこちらです。
「バブーッ!!」
うん、なんだか可愛らしいですね。ほほえましくて、思わず童心に返ってしまいますね。このひとことを聞いて、あなたのことを痛めつけようと思う人などいるはずがありません。むしろ、優しく、腫れ物にさわるように接してくれると思います。このひとことがあれば、あなたは不良を無事に切り抜けらます。自信を持って「たぶん大丈夫!」といわせてもらいましょう。
はい、今回は「街で不良にからまれたときのとっさのひとこと」を勉強しました。次回は今回の応用として「不良に痛めつけられたときのとっさの応急処置」を勉強することにしましょう。それでは、来世までさようなら。
気付いていただろうか、私がひげを伸ばしていることを。今では、リボンを結んだり、ハムスターがぶらさがったりできるぐらいの長さになっているのだ。
ひげというのは、伸ばしてみると案外いろいろなメリットがあることに気付く。たとえば「顔がおぼえやられやすくなる」「あたたかい」「ひげを剃る手間がはぶける」などは、ひげを伸ばしたことがない人間でも容易に想像できるだろう。しかし、「ジュースにひたしていつでもちゅーちゅー」「百獣の王の気分が味わえる」「顔をひっくりかえしてもやっぱり顔!?」などのメリットは、ひげを伸ばしてみなければわからなかっただろうと思う。
こんなふうにたくさんのメリットを書くと、「あら、そんなにいいものなら私も伸ばそうかしら」などと思うレディーもいるだろうが、ちょっと待った。ひげを伸ばしたことで生じるデメリットもないわけではないのだ。これからひげを伸ばそうとしている紳士淑女のみなさんにとって参考となるように、あえてそちらも記しておこう。
デメリットのひとつは「やたらひげの相談や質問をされるようになる」ということである。目立つひげを持っていると、それだけで「ひげ博士」と思われてしまうふしがある。「ひげもシャンプーするの?」「ひげは一ヶ月でどれくらい伸びるの?」ぐらいならまだしも、「ひげともみあげはどこで分けるの?」「『ヒゲとボイン』ってどこで売ってるの?」などといった、私の知らないことまで聞かれるのには困ってしまう。ただひげを伸ばしているというだけでひげに詳しくなるのなら、サンタの頭のなかはひげの知識でいっぱいだ。
それから、「やたらと触られる」ということもある。なぜだか「このひげに触ると縁起がいい」などという噂が発生し、とりあえず知り合いはみんな触った。驚くべきことだが、近所のまったく話したこともないような人が寄ってきて「触ってもいいですか」などと訊いてきたりする。さらには、電車で向かいに座っていた見知らぬ子どもに突然ひっぱられたときは、さすがに温厚な私も冷静ではいられなかった。ひげを引っ張られた瞬間にスイッチが切れたふりをして、子どもを不安がらせてやった。やーい。
それにしても、伸ばす前は「ひげなんてただの毛だろう」と思っていたが、自身が伸ばしてみれば意外と様々な反応があるものだ。ひげというのは伸びない人はほとんど伸びないらしいので、「すごいひげですね」とうらやましがられたりすることもある。そんなときは「いやあ、たいしたもんじゃないよ。ハハハ」と謙虚に笑うしかないのだが、相手の答えはいつも決まっている。
「いや、そんな卑下はいらないです」
犬を題材にした物語は泣ける。「忠犬ハチ公」「フランダースの犬」「南極物語」「名犬ラッシー」などなど、他の動物の追随を許さないものがある。そんな中で、我々にもっとも感動を与えてくれるのが「パブロフの犬」だろう。
だが、あいにくと我が国ではこの物語が広く知られているとはいいがたい。これほどまでに泣ける話を多くの人々が知らぬままでいるのは、非常に惜しいことである。そこで、その内容の全てを書くことはできないが、概要だけでも紹介できればと思い、この文章をしたためることにした。
物語は、19世紀後半、ロシアのある寒村に始まる。
村には青年パブロフと少女クドリャフスカが住んでいた。ふたりの家はボルシチが冷めないくらいの距離にあって、幼いころから仲良く育っていた。年頃にもなると互いに恋心を抱くようになり、このまま共に暮らすように思われた。
だが、青年パブロフは18歳のときに決意する。俺は、この村にこのまま埋もれてしまうのだろうか。こんな平凡な日々の繰り返しのうちに死んでしまうのだろうか。否、俺はモスクワに行く。モスクワに行って、一旗あげてみせる。オラさ、モスクワに行くだ。
もちろん、クドリャフスカはパブロフをひき止めようとする。だが、パブロフの決意は堅い。ひきとめようとするクドリャフスカを、なんとか説得しようとする。ここが物語の前半の見せ場となるシーンだろうか。どうぞ、ハンカチの用意を。
「行ってしまうのね、パブロフ…。」
「すまない。だけど、きっと帰ってくる。それまで待っていてくれるかい。」
「ええ…。でもきっとあなたは私のことなんて忘れてしまうのでしょうね。」
「そんなことはない。いつも君のことだけを考えつづけるよ。」
クドリャフスカはこらえきれずに、涙を流しはじめた。
「行かないで、パブロフ!」
「すまない、どうしても行かなきゃならないんだ。」
「パブロフのバカバカバカッ……!」
そう言いながら、クドリャフスカはパブロフの顔面を拳で殴り続けるのであった。
パブロフはクドリャフスカをふりきってモスクワにやってくる。モスクワでパブロフは働き、学び、ピロシキを食べた。途中で革命に巻き込まれたり、テトリスにはまったり、幾多の障害を乗り越え、やがて、パブロフは新進気鋭の生理学者として認められるようになる。
やがて十年が過ぎ、成功を収めたパブロフは故郷へ帰ることを決意する。パブロフにとってはあっというまの十年であったが、はたしてクドリャフスカは待っていてくれるのだろうか。そんな不安を抱えながら故郷の村へと帰り着いたパブロフが見たものは、病に倒れたクドリャフスカだった。だが、パブロフの手厚い看病と医療の経験によって、クドリャフスカは回復する。そして、その後の紆余曲折を経たのち、パブロフとクドリャフスカは結婚することになるのである。この涙なしでは読めないラストシーンだけは、略すわけにはいかないだろう。はい、ハンカチの用意を。
教会の鐘が鳴り響くなか、パブロフとクドリャフスカは手を取り合って立っていた。ふたりとも、静かに微笑んでいる。周りでは村人たちが祝福の声をあげている。やがて、ふたりの永遠の幸せを約束する鐘が、ひときわ大きく響き渡った。
リーン…、ゴーン…。
そのとき、ふたりの上に黒い影がおおいかかった。
「うわあ、パブロフの犬だ!」
村人のひとりがそう叫んだ。
そう、パブロフがモスクワの実験施設で飼っていた犬が、巨大化してやってきたのだ。
「あいつは鐘の音を聞くと、餌をもらえると勘違いしてよだれをたらすんだ!」
村人が説明的に叫ぶ。ただの村人がなぜそんなことを知っているのかといえば、こっちが聞きたいぐらいだ。
「うわあ、逃げろ」
しかし、時すでに遅く、教会はよだれの海に。パブロフはよだれに飲み込まれながら、「これまでの話はなんだったんだ」と思ったのでした。
泣けてくる。
知人が川の調査をするというので、アシスタントとして同行した。私の明晰な頭脳はフィールドワークにおいても発揮される。おそらくは、知人も私の判断力と機転を頼りにしているにちがいない――はずだったが、与えられた任務は、「合図があったら木をゆする」というものだった。チンパンジーだって、もうちょっとましなことができる。
そんなわけで、合図があるまではただぼんやりとしているだけである。私は退屈を紛らすため、鳥を見ていた。そういう季節なのだろうか、川にはたくさんの水鳥が来ていた。ちょうど双眼鏡をあずかっていたので、それを使って鳥を観察する。こんなふうに、鳥をじっくり見るなんて、はじめてのことだ。
鳥を観察しはじめて、思いがけないことに気づいた。「バードウォッチング」というのは、非常に興奮する行為である。「遠くから鳥を見て、何が楽しいのか」というのは、素人の浅はかな考えであることがわかった。
なにしろ、鳥さんがかわいいのだ。茶色い小さな鳥さんが水辺でばちゃばちゃと羽をばたつかせている。むこうは私にこっそり見つめられているとも知らずに油断しきっているのである。このときの気持ちを身近なことでたとえれば、放課後の教室で好きな男子の話をしている少女たちを天井裏からのぞいているときと同じような気持ちだといえば、わかってもらえるはずがないと思う。
「うふふ…かわいい奴らめ…ほら、もっとばちゃばちゃ…」
そんなことをつぶやきながら双眼鏡をのぞきこむ姿は、まあ、はたから見ればまるで変態に思えるかもしれないが、私もそう思う。
そうやって鳥さんたちに夢中になっていると、知人から合図があった。我に返った私は、自分の姿をかえりみて恥ずかしくなった。私よ、しっかりしろ。鳥などにかまけて、自分の役割を忘れてどうするのだ。あやうく理性が吹っ飛ぶ寸前ではないか。鳥に対して妙な支配感を感じている場合ではない。もし私でなければ、とっくに理性が吹っ飛んでいただろう。私だからこそ、いつもどおり冷静に任務を遂行できるのである。
私は、打ち合わせどおりに木をゆすった。思い切りゆすったため、驚いた鳥たちは、いっせいに川辺から飛び立ってゆく。
「逃げ惑え…鳥どもよ…フハハハッ」
2002年の冬がはじまる。冬は私の苦手な季節だが、それでも冬に美点があるとするならば、とにかく静かなところだろう。虫や蛙の鳴き声も無く、人もほとんど出歩かず、夜ともなると世界から音が切り離されたかのようである。一方で、その静けさは寂しさを呼び起こす。そう、冬は人恋しくなる季節でもある。そんな季節に、私はこんな詩を想い出す。
みなさん今夜は静かです
僕は女を想つてる
僕には女がないのです
それで苦労もないのです
えもいはれない弾力の
空気のやうな空想に
女を描いてみてゐるのです
えもいはれない弾力の
澄み
薬鑵の音を聞きながら
女を夢みてゐるのです
かくて夜は
犬のみ覚めたる冬の夜は
影と煙草と僕と犬
えもいはれないカクテールです
(中原中也「在りし日の歌」から「冬の夜」を部分引用)
冬は空想の似合う季節だ。特に、寂しい夜には異性の空想が合う。架空の人物を空想するのも良いし、実在の人物と架空のシチュエーションを楽しんでも良い。自分の精神がいかに病んでいるのかを知ることができるだろう。
もっとも、私は空想というものをあまりしない。これは私が理性的なせいだと思う人も多いだろうが(特に理性の無い人は)、それだけではない。もともと、私は空想などを必要としないのだ。しょせんは空想などかげろうのごとし。現実こそが、私に確固たる充実を与えてくれる。特に、異性の想像などは、私にとって最も不必要なものだ。
なにしろ、私の周りのあらゆる女性が私を好意を持っているのである。今日も数えられるだけで108人の女性とすれちがったが、その全員が私の顔を見て照れてしまい思わず目をそらしたり、私にとびきりの笑顔を見せようとしたけどプレッシャーから顔をしかめてしまったり、私を意識するあまりに顔をそむけて足早に立ち去ってしまったりといった行動をとっていた。こんなにモテモテの私が、自分に都合のよい空想で現実から目を背けようとするわけがない。
そんなわけで、今夜も多くの女性が私との甘い生活を空想したりしているのかもしれないが、私はいわばアイドルなのであって、特定の女性を想ったりはしないし、する必要もない。ほら、昔から言うではないか。
アイドルは空想をしない。(ごめん)
プレゼントの基本は、「自分がもらって嬉しいもの」を贈ることだという。だが、私の場合、あいにくと「自分がもらって嬉しいもの」は「贈ったら人格を疑われかねないもの」であることが多い。幸いにして私の人格はすでに疑われているため、何を贈ろうが支障はないが、どうせなら相手に喜んでほしいものだ。
思うに、ある品物に対して「贈られて嬉しい度」を測定できる装置があれば便利だろう。センサーを向けると「この商品の『贈られて嬉しい度』は70点です」などと表示されるのである。そうすれば、「こんなものを贈ってよいものだろうか」といちいち悩まなくてすむ。ただ、この装置を実用化するのは難しい。当たり前のことだが、あるプレゼントが嬉しいかどうかは、その内容だけでは決まらないからだ。贈られる人の好みは常に変化するし、いつどのような状況で誰に贈られたかによっても嬉しさは違う。
たとえば、私は小さいころ「仮面ライダーの変身ベルト」が欲しかったが、今どきそんなものを贈られても困る。私のように気品のただよう紳士が変身ベルトを締めて道路を走り回るのは、あまり見てくれのよいものではない。かといって、家でこっそりと楽しむだけでは意味がない。私は見せびらかしたいのだ。
あるいは、小さい子供が父の日などに「肩たたき券」を贈ることがある。あれは自分の子供が贈ってくれたからこそ嬉しい。全然知らない人からもらった「肩たたき券」はどこか不気味だ。電車でたまたま隣に座ったおじさんが「はい、肩たたき券」などといって、十枚つづりの券をくれても、どうすればいいのか。
つまり、贈り物の嬉しさを量るためには、非常に多くの要素を考慮にいれなければならないし、そんな装置をつくることは、まず不可能である。そもそも、仮に考えうる全ての要素を考慮に入れて装置を設計したとしても、人間の気持ちなどちょっとしたことで変わってしまうものだ。天気が悪かったり、目にゴミが入ったり、そんなつまらないことで不機嫌になったりする人間の気持ちがどうしてわかるだろう。
ここは逆から攻めるべきである。すなわち、「贈られて嬉しい度」を測定するのが難しいのなら、「贈られて嬉しくない度」を測定をしてはどうか。人間が好むものというのは多種多様だが、嫌うものというのは案外と判断しやすい。これなら不可能ではないだろう。あるいは、この日本のどこかではそのような装置がすでに開発されているのかもしれない。そして、自分の嫌いな相手に贈り物をするときに活用されているのかもしれない。贈られてきた「たいして親しくもない友人の結婚式のビデオテープ」を見ながら、ふとそんなことを思った。
セールス電話が馴れ馴れしくなってきている。
もちろん、それはやつらの手口だ。事務的な口調であれば、こちらも事務的に応対することができるが、最初から馴れ馴れしい口調だと「知り合いかも」と思ってしまい、いきなり切ることができない。そうして切るタイミングを逃してしまうと、ずるずると会話するはめになる。
先日かかってきた電話では、相手の男がいきなり元気な声であいさつしてきた。
「こんにちはっ!」
幸い、私はこれが知り合いからの電話でないことにすぐ気付いた。私の知り合いなら、私に電話をかけるとき、こんなに元気でいられるはずがない。つまり、この電話はセールスマンの罠である。ここで相手に調子をあわせて明るく対応してしまうと、その後も無下に対応しにくくなり、相手のペースにひきずりこまれてしまう。こんなちゃちな手口に私がひっかかると思っているのだろうか。バカにするにもほどがある。私は反射的に「こんにちはっ!」と言ってしまったあと、そんなことを考えていた。バカにもほどがある。
それにしても、やたら馴れ馴れしいセールス電話には閉口する。はじめのうちは「○○じゃないですか」と一応はですます口調なのだけれど、次第に馴れ馴れしさが増していき、「○○だよ〜」「○○じゃない?」などと言いはじめる始末だ。このままでは「ごめん、ちょっとウンコしてくるから待ってて」などと言い出すのではないだろうか。いつから俺とお前はそんなツーカーの仲になったんだと言いたい。
結局、対策としてはこちらが毅然とした態度をとるようにするしかないのだ。ツーと言われてカーと返すのでは相手が増長するばかりである。常に距離を保たなければならないのだ。
ただ、そういうことは頭ではわかっていても、いざとなるとなかなか実践することは難しい。そのため、普段から訓練しておくことが必要である。たとえ親しい恋人が相手であっても、ツーといわれてカーと返すのではなく、ツーと言われてツーと返すぐらいの心がけでいたい。
「もしもし、私、大切な話があるんだけど…」
「ツー!」
ツー…、ツー…、ツー…
満月の夜に彼らはやってくる。
ぼくらのヒーロー、無敵の戦士。
そう、彼らの名は…。
ジャーン!
「満月レンジャー!」
満月レンジャーは満月の夜にちょっとテンションが上がる正義のヒーローだ。五人のヒーローは愛車のマッハ・ゴーゴー号にまたがりやってくる。風に揺れるすすきを背にして、かっこよく決めポーズだ。
「赤満レンジャー、参上!」
「青満レンジャー、参上!」
「緑満レンジャー、参上!」
「黄満レンジャー、参上!」
おや、桃満レンジャーの姿が見えないぞ? どうしたんだろう。
大丈夫、みんな心配しないで! 桃満レンジャーは自転車に乗っているときにふざけていたので排水溝に落ちて療養中なんだ。排水溝に落ちる寸前までの満面の笑顔がとても印象的だったぞ。桃満レンジャーがいなくたって、他の四人は自己中心的な奴ばかりなので、まったく気にしていないぞ!
「でたな! 怪人うさぎ男!」
あっ、リーダーが敵を発見したぞ。リーダーは小動物に勝手に人格を投影して敵あつかいするのが得意なんだ。小動物にとっては迷惑だけど、他の人に迷惑をかけるよりましなので、みんなも黙認しよう!
「くらえ、赤満パンチ!」
リーダー得意の突きが炸裂だ! がんばれ、赤満レンジャー。他の三人は、もう帰り支度をしているぞ。リーダーの真剣な目を見ていると、ぼくらは勇気づけられるとともに、ちょっと不安な気持ちになるんだ。
「うわあ!」
あっ、怪人うさぎ男の反撃だ。リーダーが(いろんな意味で)危ない! リーダーは小心者の引き篭もりだから、小動物が急に動くとびっくりして団子虫みたいに自分の中に閉じこもってしまうんだ。だったら家でおとなしくしていればいいのにね。さあ、リーダー立ち上がれ。みんなもリーダーに声援を送ろう。がんばって、リーダー。
「よし、必殺技だ!」
みんなの声援がリーダーに届いたぞ。ありがとうみんな。本当はみんなが冷めた目で見ていることは知っているけど、それでもありがとう。さあ、リーダーの必殺技はラグビーボールを「アタック!」のかけ声とともに敵にぶつけるという、ラグビー部とバレー部のどちらからも微妙に反感を買っている技だ! それゆけ、赤満レンジャー。
「アタック!」
ドカーン!
やったぞ、怪人うさぎ男が逃げ出した。今日も満月レンジャーの勝利だ。すごいぞ、ぼくらの満月レンジャー。
あれ? 赤満レンジャーが空を見上げているよ? どうしたんだろう。
そう、赤満レンジャーは戦いが終わると、いつも寂しそうに月を見上げるんだ。いつかあそこに帰れる日のことを思って。満月の夜に少しだけ月が欠けていたのなら、それは故郷の月からリーダーを迎えに来るサインなんだ。赤満レンジャーはそっと涙をぬぐった。え? 最後にチンケなお涙ちょうだいのドラマにしようとしてるだろうだって? や、やだなあ。そんなことないよ。
――だけど、リーダーが見た月はやっぱり丸かった。
上の「流れよ我が涙、とヒーローは言った」は「こっそり月見雑文祭」の開催にあわせて書いたものです。文章を書くにあたってのルールは以下のとおり。
・ テーマは「秋」や「月見」に関連したものを。
・ 「満月の夜に」から書き出す。
・ 文中に「すすき」「うさぎ」「団子」という3つの単語を入れる。
・ 文中に月見に関連した語の同音異義語(または掛詞)を入れる(例:「月=突き」など)。
・ 「やっぱり丸かった」で文章を終える。
宮沢章夫の『百年目の青空』(マガジンハウス)に、「こつは生産される」というエッセイがあり、そこで友人が見つけたこつを紹介している。コンピュータには漢字変換システムがつきものだけど、それを電話帳にしてしまうというのだ。単語登録機能によって、たとえば「スズキタロウ」の変換語句として「077-XXX-XXXX」と電話番号を登録してしまう。そうすれば、わざわざ手帳をめくったりせずとも、コンピュータを立ち上げて、ワープロソフトを起動し、名前を入力して変換キーを押すだけで、いとも簡単に電話番号を調べられるのだという。
これを「こつ」といっていいのかどうか疑念はあるけれど、もしこれを「こつ」といってもいいのであれば、私も「こつ」をひとつ持っている。同じく、漢字変換システムに関するこつだ。
誰にだって、気分が落ち込むことはある。私のように、容貌・知性・財産のすべてにおいて卓越した人間であっても、ときどき自分すら騙しきれなくなって、落ち込むことがある。そんなときには、やはり誰かに慰めてほしいと思う。だけど、なかなかそんな気の利いた人間はいないものだ。私が落ち込んだ顔をしていると、嬉しそうに「おねしょでもしたの?」と訊いてくるような輩ばかりである。
人間が慰めてくれないのなら、人間以外に慰めてもらうしかない。そこで「こつ」である。漢字変換システムの単語登録機能を利用して、落ち込んでいるときに効きそうな文章をあらかじめ登録しておくのだ。
たとえば、「なんだかゆううつだなあ(なんだか憂鬱だなあ)」と入力すると、「ダイジョウブ?(大丈夫?)」と変換されるように、単語登録しておくのである。そして、いざ気持ちが落ち込んできたら、コンピュータ相手に愚痴を言うことができるのだ。前もってたくさんの単語を登録しておけば、コンピュータと癒しの会話をすることさえ可能である。
「なんだか憂鬱だなあ」
「ダイジョウブ?」
「何もかも嫌になってきた」
「ゲンキダシテ!」
「僕を理解してくれるのは君だけだよ」
「アナタガスキダカラ」
「ねえ、近くにおいでよ…」
「イヤーン」
コンピュータの前には、ますます落ち込んでいる私がいた。
みなさんに、プラス思考のすばらしさを伝えたい。
なにより精神衛生のためによいし、ものごとを前向きにとらえるのは建設的でもある。おまけに、無料でできる。決定された結果は変えられないが、結果に対するリアクションは自由なのだ。だったら、どんなことだって肯定的にとらえたほうがいい。
たとえば、風邪をひいたときには、こんなふうに考えられる。
「風邪をひいたおかげで免疫がつくし、ゆっくり寝ていられるし、咳やくしゃみで腹筋が鍛えられるし、いいことずくめだ。」
もっとも、プラス思考を実践するのは簡単ではない。思考を正の方向へコントロールするだけなら、誰だってできるし、正常な人間なら思考が前向きになるのは自然なことですらある。むしろ、思考が前のめりになりすぎるのを抑えることが難しいのだ。
「風邪をひいてしまった。しかし、これはただの風邪ではないだろう。今、私の身体は浄化されているのだ。宇宙存在であられるサタン様が私の意識側個脳意識を滾らせ、やがて、ドゥグ・ハル・ラ・バルのパワーが生命の樹を我が肉体に捧げようとしているのだ。そのとき、我が肉体は昇天華伏することで、神となる。そう、私は神となるのだ。愚民どもよ、ひれ伏せ。我が無限遠天の力に戦慄せよ。フハハハハッ……。」
油断していると、ついついこんなことに考えてしまいがちである。だけど、こんなことばかり考えていると、日常生活にだいぶ支障をきたすようになる。友達は十人ぐらい減る上に、三人ぐらい増える。「視点が定まらない」「いつもクスクス笑っている」「ときどき顔がひきつる」などの諸症状があらわれるようになる。普通に会話しているつもりでも、無意識にサタン様の影が現れてしまう。思考の振幅が激しくなり、ふと我に返ったとき「こんなことで大丈夫だろうか」と不安に襲われることもある。
でも、そんなときでもプラス思考で安心。
人は禁止されたことこそを実行したくなる。「甘いものを食べてばかりだと太る」と言われれば、甘いものばかり食べたくなる。「こんな本を読んじゃいけません」と言われれば、隠れてでも読む。つまり、扇風機の羽根に「指を入れないで」と書かれていれば、「指を入れたい」と思うのはごく自然なことだ。
考えてみれば、「指を入れないで」などというのは、書くまでもないことである。危険だとか扇風機が壊れるとか、そんなことは自明であり、書かれるまでもなくわかっている。冷蔵庫に「象を入れないで」と書くようなものだろう。にもかかわらず「指を入れないで」などと書くのは、「人は禁止されたことこそを実行したくなる」という習性を利用して、指を入れさせようとしているからであろう。
しかしながら、これを「罠」と考えるのは早計である。むしろ、私はこれを「挑戦」と受け止めたい。考えてみれば、人類は回転への挑戦を糧に文化を成熟させてきたといっても過言ではない。たとえば、ラップミュージックなどはレコードの回転に挑戦しつづけた人間が生み出した音楽であると言われている。また、食事中にも回転への挑戦を怠らぬために、中国では四千年前から食卓を回転させてきた。日本でもそれに対抗すべく、なぜか寿司を回転させたりしている。
人間は回転するものを見ると挑戦せざるを得なくなる生き物だ。洗濯機の回転を見ると逆方向にかきまわしたくなるし、回転する椅子を見ると、上に座ってゲロを吐くまで回転してしまう。牛が赤い布を見ると突撃するように、人は回転するものを見ればそれに挑戦し、それこそを生きがいとしてきたのである。だからこそ、扇風機の羽根は我々を挑発する。「指を入れないで」と書きながらも、「入れられるものなら入れてみろ」と我々を嘲笑っているのである。はたして、これを笑って聞き流せようか。
だが、私はまだ決心がつかない。果たしてこの高速回転に挑戦して、私は無事でいられるのだろうか。とりあえずボールペンを入れてみると、ボールペンは弾き飛ばされ、羽根にはひびが入った。私の指とボールペンとどちらが強いのかは知らないが、わざわざそれを確かめようとは思わない。臆病者と笑うなら笑え。嗚呼、私は扇風機に挑むには、あまりにも未熟だ。
だが、いつの日か扇風機の回転を制して見せよう。いずれは伝説の騎士のように、巨大な風車に向かって突撃もしよう。そのとき、人々は私の勇気を称えるだろう。そう、私は回転の英雄となる。大衆は私の頭を指差し、くるくると回すことを惜しまないに違いない。