知人(仮にA氏とする)に頼まれてあまりよく知らない人(仮にB氏とする)に会ったりするときのことだ。用事をすませて帰り際になると、必ずといっていいほどいわれることばがある。
「Aさんによろしくお伝えください」
それを聞くと、私はいつも困惑する。その伝言をどのように扱うのが大人として正しいのか、いまだにわからないのだ。
この場合、伝えられたことをそのままA氏に伝えなおすというのがもっとも簡単な方法だろう。
「Bさんが、Aさんによろしくとおっしゃってましたよ」
だが、果たしてそれはわざわざ伝えなければならないようなことなのか? 「よろしくお伝え下さい」が単なる定型句にすぎないのはわかりきったことだ。もし、本当に「よろしく」と伝えたいのなら、わざわざ私を介さずに直接いうだろうに。
なにかもっと重要な伝言であれば、私もはりきってA氏に伝えることができる。
「Bさんが、Aさんのこと好きだっておっしゃってましたよ」
それだったら、私も喜んで恋のキューピッドになろうという気になる。なんだったら、お互いのアリバイづくりのための協力などをしてもいいし、ちょっと腕まくりしたりもする。だが、そうではないのだ。
そこで、第二の選択肢として「何も伝えない」が浮上してくる。たいていの場合はそれを選択することになるのだが、どうも私としては気持ち悪いのである。「お伝えください」といわれて、それが何の意味も無い定型句であることはわかっているけれど、それでも私がB氏に無断でその依頼を無視していいということにはならない。ひょっとして、何の意味もないというのは私の思い込みで、「よろしく」にはA氏とB氏のあいだで取り交わされた暗号が隠されている可能性だってある。
よ…夜になったら
ろ…ロリータファッションの娘が
し…尻のビンカンな部分を
く…くすぐっちゃうぞ
だとしたら、私が伝言を無視することで、AさんとBさんのひそやかな楽しみを奪うことになるのかもしれないし、それが原因でAさんとBさんが仲たがいするはめになるかもしれないし、できれば私も混ぜてほしい。
そういうわけで、私はこの些細な伝言を伝えるか伝えないか、ひどく葛藤することになるのだ。いった側は軽い気持ちなのかもしれないが、いわれた側の心には重くのしかかり、それがいじめや不登校につながるのだということを私たちは忘れてはいけない。
あるいは、私が未熟なだけで、ちゃんとした大人はこのような伝言をどのように扱えばいいのか心得ているのかもしれない。ときおり、駅のトイレや人通りの少ない路地の壁で見かける「夜露死苦」の文字。ひょっとして、あれに何かヒントが隠されているのでは…?
「私のお墓の前で泣かないでください」なんて詩がありますが、自分が死んだとしても、やはり自分のお墓の前では泣いてほしくないと思います。泣かれたりすると、いや自分そんなたいした人間じゃなくて、ただ死んじゃっただけなんで、と恐縮しそうだから。
でも、お墓の中から泣かないでといってあげることもかなわないので、せめて、墓碑銘とかで相手を笑顔にすることができないかな、と思います。日本ではあまり凝った墓碑銘を刻む習慣がないみたいですが、西洋ではちょっと気の利いた文をお墓に刻んで、訪れた人の悲しみをフッと紛らせたりしますよね。有名なものでは、アル・カポネの「神よ、あわれみ給え」とか、カレン・カーペンターの「地上の星 天国の星」とか。 たとえ名声を得た人でなくても、「ここに○○眠る。彼は生涯を漁師として生き、ここに永遠に錨を下ろした」とかありそうです。ちょっとうまいことをいうってのが肝心だと思います。あまりうまくないですか。そうですか。
私が死んだときは、お墓に「あたり」とか書いてもらいたいです。子どものころ、家で大事に飼ってた金魚とかが死んだときはアイスのあたり棒でお墓をつくったものです。クラスで飼ってた金魚は、使用済みの割り箸だったのに。これだと、なんだか大事にされてる気がしますし、微笑ましくていいんじゃないかなと思います。それに、もしかして神さまが「もう一本」といって、復活できるかもしれないですし。
でも、考えてみれば墓碑銘ってのは自分で考えるものじゃないのかもしれません。残された人が死者を忍ぶためのものですから、残された人が最適な墓碑銘を考えるほうがいいわけです。「○○ここに眠る。よき妻だった」とかね。だとすると、生きているときに変な印象が残っていたりしたら、変な銘を刻まれるんじゃないかと心配になります。「綾倉ここに眠る。家ではノーブラ派だった」とか。なんだか、ちょっと死に切れないような気がします。
つまりは、生きかたを改めなければ、「いい墓碑銘」なんて刻んでもらえないんでしょうね。こんなふうに、役に立たないうえにイメージアップにつながりそうもない文章を書いたせいで、「いい墓碑銘」からまた一歩とおざかったような気がします。
おかげで、墓穴は掘れましたけど。
もはやそれしか考えられないほど、最後は線香花火である。線香花火の終盤に、こよりの先でふるふると震えながら、それでもなんとか落ちまいとしがみつく玉を見てわきあがる「こいつを守ってやりたい」という強烈な気持ち。「楽しかったよ」なんてことばは聞きたくない。ただ、ずっといっしょにいてほしい。最後の力で弱く輝く玉を悲痛な思いで見つめながら、思わず、私は叫んでいる。
「好きだったんだ、おまえのことが、ずっと…!」
だが、玉は最期に微笑むように明るさを増し、そして、無情にも地面に落ちる。襲いくる絶望感。目に涙を浮かべ、救いを求めるように周囲をみわたすが、ともに花火をしていた友人たちはただ目をそらしてしまう。ああ、我は孤独なり。その理由もわかってる。
そういうわけで、やはり最後は線香花火がよい。前述のごとく、夏の終わりにふさわしい盛り上がりを演出できるのが、線香花火なのである。もし、これが線香花火ではなく一字違いで健康花火だったりしたらどうか。健康花火がどんな花火か知らないが、静かに余韻にひたれるような花火でないことは確かだ。きっと、花火に火をつけると、どこからともなくハイテンションな音楽が流れてくるのだろう。
すこやか〜♪
みんな仲良し さあ、輪になって花火だニャン
アッ でもお前、変なニオイするからあっち行って
ウソウソ ごめん☆ ホラ いっしょに踊ろ?
えっ、誰と話してるかって? これ、全部、腹話術だよ
アハハハ、青春、勇み足〜♪
音楽は花火が消えるまで鳴り止まず、ただはやく終わってくれることを祈るばかり。こんな花火では、余韻もへったくれもあろうはずがない。
しかしながら、静かならそれでよいわけではない。たとえば、最後が線香花火ではなく、単なる線香だったらどうか。華やかな花火は終わり、静かに線香に火をともし、さて、どうしたらいいのか。やはり、静かに合掌して祈るのか。確かにしみじみとした気持ちにはなるかもしれないが、どうも腑に落ちない感じだ。花火全体が何かの儀式のような雰囲気になってしまう。いったい私は花火で誰を呪おうとしているのか。
そういうわけで、やはり最後は線香花火がよい。線香花火はにぎやかすぎず、おとなしすぎず、「ちょうどよい」のである。この最高のムードメーカーがあれば、どんなロマンチックなシチュエーションも思いのままだ。たとえば、夜の公園で恋人とふたりきりの花火。浴衣を着た彼女が最後に残った線香花火をつける。こよりの先で不安定にふるえる玉を見つめながら、そっと彼女がささやく。
「ね、むかし少女マンガで読んだセリフ――いってもいい?」
「え?」
「主人公の女の子がね、こういうの――。『どうか、線香花火のしずくが落ちないくらいに、やさしいキスをしてください』って」
「……」
そして、重なりあう唇。玉はかすかなふるえを感じて地面に落ちるが、目を閉じた二人はそれに気がつかない。ただ、静寂が二人を包む。
そんな二人を横目で見て、「やっとるのお」とつぶやきながら、ゴミ箱あさりを再開する私。
上の文章はNIKKI SONIC '05に合わせて書かれたものです。
こんにちは、『とっさのひとこと、日本語会話』の時間です。今日は「うっかりおならをしてしまったときのとっさのひとこと」を勉強しましょう。
誰かと二人きりでいるとき、うっかりおならをしてしまい、気まずい雰囲気になることってありますよね。特に困るのは、好きな異性といるとき。男性はともかく、女性はどうしていいのかわからないんじゃないかと思います。
ある程度親しくなれば、出そうなときに「出ます」、においそうなら「においます」と報告することで、礼儀正しくふるまうことができますが、まだあまり親しくないときにはどうすればいいのでしょうか。そこで、今回は、これからもっと親しくなりたい男性と二人でいるときの、女性向けのとっさのひとことをレッスンしましょう。
それでは、最初のレッスンです。あなたがプゥとおならをしてしまったら、できるだけ大声で、次のように叫んでみてください。
「伏せてっ、ガス爆発するわっ」
そう叫びながら、床に伏せましょう。あなたのユニークなアクションに、相手は思わず笑顔がこぼれることでしょう。また、不測の事態へ的確に対処する姿に、意外としっかり者なんだと思われて、好感度アップは間違いありません。万が一、相手の男性に「なんだこいつ?」という顔をされたときは、自爆しましょう。
はい、次のレッスンです。このひとことには、それなりの演技力が必要とされるので、できることなら家でしっかり練習をしてください。
あなたがブゥッと少し大きめのおならをしてしまったら、次のように言ってみてください。
「大地が…大地が怒っておるぞォッ」
そう老婆のような声で言いながら、身体をガクガクとふるわせましょう。そのとき、相手の反応がいまひとつ鈍いようでしたら、目玉をぐるっと回して白目で相手にしがみついてください。すると、相手はおならのことどころではなくなり、おならをうまくごまかすことができるばかりか、あなたが大地の怒りにとりつかれたことを心配して、あなたが一人で静かにできる時間を大幅に増やしてくれることでしょう。
さて、最後のレッスンです。最後だけあって、かなり難易度が高いですが、これができれば上級者なのでがんばってください。
あなたがプゥとおならをしてしまったら、小さな声で次のように言ってください。
「ごめんね」
できれば、うつむいて顔を真っ赤にしながらいいましょう。ふだんはちょっとサバサバした感じの女性だったりすると、その照れっぷりとのギャップ効果でさらに好感度倍増です。上記のセリフを言うと、相手は「気にすんなよ」などと言いますので、そのときは黙って相手の背中にぴたっとくっついてください。そう、おならなんて誰もがするものですから、あまり気にする必要はないんですよ。はい、最後はまったくおもしろくない誰かさんの好み丸出しのレッスンでしたね。
あ、ちなみに私がおならをしたときは、爽やかな笑顔で相手を見ながら「ねえ、なんだかジャスミンの香りがしない?」と言うことにしています。それでは、次回の放送をお楽しみに〜。
業界の挨拶はいつでも「おはようございます」だ。これは、「こんにちは」「こんばんは」がどうもなれなれしいのに対して「おはよう」だけが「ございます」とつけられるので、丁寧な感じがして言いやすいためだというのが定説である。確かに、「こんにちはでございます」「こんばんはでございます」というのは、どうにも座りが悪いように感じられる。
しかし、業界ではいつでも「おはようございます」で通用するとしても、業界外ではそういうわけにもいかない。そこで、「こんにちは」「こんばんは」に代わる、なんとなく丁寧っぽい挨拶というのが巷では求められているはずなのだが、どうもそれらしい挨拶が存在しない。考えてみれば不思議な気もするが、せっかくなので、ここで使いやすい挨拶について一考してみることにする。
まず、なぜ「おはようございます」が言いやすいのかといえば、前述したとおり、語尾の「ございます」にその理由がある。しかし「おはよう」を使うのは、基本的に朝に限定されている。そこで、優れた部分を抽出して、それを挨拶としてはどうかと考えられる。つまり、朝ではない時間帯に挨拶をするときは、次のように言ってみるのである。
「ございます」
だが、たいていの人はそれを聞いてこんな反応を示すだろう。
「何が?」
まったくそのとおりである。「ございます」だけでは、何がなんだかわからない。いったい、そこに何が存在するのかを示さなければ、内容が不足していると言わざるを得ない。そこで、そこに何が存在するのかを考えてみれば、デカルトに言わせれば、その存在が確かなのは「私」だけであるらしいので、挨拶は次のようになると考えられる。
「私でございます」
これで少なくとも文章にはなる。挨拶とは、そこに自分が存在することを表明するものであるのだから、これで必要十分といえなくもない。だが、これだけでは、相手によっては「それがどうしたの」と思われてしまう可能性もあるため、自分が相手に何を求めているのかを分かりやすく言明するのが適当ではないかと思われる。
「私を見てほしいのでございます」
こうすれば、挨拶の目的を十二分に達成できるだろう。少なくとも、相手が自分の存在を認識することは間違いない。
しかしながら、少しあらたまった言い方になってしまっているため、特に見てほしいものがあるわけでもないのに、妙に相手の注意をひいてしまい、挨拶後に気まずい雰囲気が漂ってしまう可能性もある。そこで、さらにひとこと付け加えて、自分が相手に存在を認識してほしいだけであり、特に相手に何かを求めているわけではないということを表明することにする。
「私を見て、あとはあなたの好きにしてほしいのでございます」
こうして何の欠点もない挨拶ができあがる。ただ、言う人によっては、少しばかりエロチックに聞こえる挨拶かもしれない。もし、妙齢の女性から伏し目がちでこんな挨拶をされたら、もちろん、ボクの股間が「こんにちはっ」とご挨拶。
ごめんってば。
引越しの挨拶を成功させるコツは、「この人にぜひ隣に住んでほしい」と相手に思わせることである。
では、どのような人物が「ぜひ隣に住んでほしい」ような人物であるのかといえば、たとえば私のような一人暮しの男が挨拶に行く場合、まずは犯罪などには縁が無い人間であることを相手にアピールしておくことが大切だ。
「盗聴とか、絶対しませんから」
このひとことで、相手の警戒心はずいぶんと緩くなる。もし、現在、隣人関係がうまくいっておらず悩んでいる人がいれば、自分がこのひとことを忘れていなかったか思い出してほしい。
また、警戒心を解くだけではなく、好感度をあげていくことも重要である。自分がいざというときに頼りになるということをアピールしておけば、できるだけ仲良くしておこうと相手が思うのは当然の心理だ。
「エイッ! あっ、うっかり得意のカラテをやっちゃった」
これだけでは野蛮な人だと思われるかもしれないので、嫌味にならない程度にインテリジェンスをアピールすることも忘れてはいけない。
「アレ? カラテって、なんだかパキスタン最大の都市カラチに似てるね。フフ」
もう期待感がとまらない。なんとすばらしい青年が引っ越してきたものだと、相手はすぐにでもウェルカムパーティーを開きそうな勢いだ。もし隣の先住者が妙齢の女性だったりすれば、もしかして恋の予感?
現在、隣人関係がうまくいっていないという人も、今からでも遅くない。すぐに、隣の部屋のドアを叩いて、こう言えばバッチリだ。
「今まで無愛想で、会って挨拶もせず、夜中に突然お経を唱えたりしてごめん。俺、本当は気さくで話しやすいタイプだから、仲良くしよう」
さあ、これで私が教えられることは全部教えたぞ。次は、君が私に人付き合いの仕方を教えてくれる番だ。
かつて、スパイダーマンは言った。
「ヒーローは孤独だ」
私はヒーローじゃないが孤独だ。
それはともかく、ヒーローとは、孤独であることにその本質がある。人を助けたら、名も告げずに立ち去るのがヒーローの流儀であって、助けるたびに「ねえ、俺のおかげで助かったよね? ね?」というようなヒーローは鬱陶しい。
また、孤独であることには、利点も多い。ヒーローであることが周囲に知られてしまったら、普段から悪の組織に命を狙われたり、つまらないことで「お前、ヒーローなんだろ」と用事を言い付けられたり、「ヒーローさん」などというあだ名で呼ばれたりしかねない。
つまり、ヒーローと孤独は決して切り離せないものであり、ヒーローを志すならば覚悟をしておくことだ。ヒーローを極めたヒーローともなれば、その孤独は想像を絶する。
・助けにいったら、露骨に嫌な顔をされた。
・悪人にも無視された。
・声をかけづらくて、そのまま帰った。
これは、もはやヒーローを超えた「超ヒーロー」といっても過言ではない。
もちろん、超ヒーローが孤独に悩まないわけではない。ヒーローをやめたくなるときもある。だが、正義の味方としての使命感が、彼を突き動かす。やがて、ヒーローは苦悩を乗り越え、更なる高みを目指す。…それは、究極の孤独。
――すなわち、人類の滅亡。
または、満員のエレベーターでおならする。
パンクにとって我慢ならないのが笑点の大喜利である。見ているだけで体がふやけてきそうなあの空間で、体制に組み込まれた薄汚い豚どもに対するやり場のない怒りをどうやってぶつけろというのだ。
そもそも、座布団の枚数が増える程度の報酬で、人が真剣になれるとでも思っているのだろうか。いつから人間はそこまで達観したのか。かのマザー・テレサは言った。「人を恐怖と欲望によって支配することはできるが、座布団では無理」と。嘘だが。
笑点は、もっと殺伐としていなければ、パンクと呼ばれるに値しない(ここで、「笑点は別にパンクを目指してないよ」とか、小賢しい突っ込みはするな)。そこで、提案する。舞台では、座布団の代わりに表面がギザギザになった石の台の上に回答者を正座させよう。そして、つまらない回答を言ったときは、正座した脚の上に重し(通称、THE BUTON)を載せることにしよう。
「おおい、山田くん。THE BUTON一枚やっとくれ」
歌丸がそう呼びかけると、身長2m10cmの山田隆夫が重さ25kgのTHE BUTONを片手でぶらぶらさせながら、不気味な笑みを浮かべて舞台袖から登場する。
「はい、かしこまりました…」
山田隆夫はくぐもった声で返事をし、回答者の脚の上にTHE BUTONを載せ、ついでにぐっと体重をかける。「……!」。声にならない悲鳴を上げる回答者を見て、山田隆夫は瞳の奥に捩れた愉悦を浮かべる。
客席は、ただ息をのみ、大量の汗をたらしながら耐える回答者を見つめている。回答者の荒い息遣いを除き、会場は静まりかえっている。そんな中、歌丸が次のお題を告げる。
「さて、次のお題です。リストラされたばかりのサラリーマンが、連続強姦魔の冤罪をかけられ取調べ中に、思わず笑ってしまった一言とは? さあ、お答えください。ただし、ピカチュウ語で」
鬼のようなお題を出す歌丸。絶望的な顔を浮かべる回答者たち。固唾を飲む観客。十数秒ほど沈黙が流れる。このまま回答が出なければ、全員に1枚づつTHE BUTONが載せられてしまう(そういうルールだ)。やがて、歌丸が残酷な笑みを浮かべつつ時間切れを告げようとしたとき、突然、会場の背後の扉が開いた。
「ちゃらーん、こん平でーす」
こん平の登場に、凍り付いていた会場の空気が動き出す。一瞬、不意をつかれて目を見開いていた歌丸は、すぐに気をとりなおして突然の闖入者に怒声を浴びせようする。しかし、こん平はそれで鋭い目で制し、おごそかに告げた。
「みんな仲良くしよう」
それで、みんな納得して輪になってマイムマイムを踊りました。おわり。(画期的)
多くの人は、どうしようもない妄想(もし学園のマドンナとボクの体が入れ替わっちゃったら!?)をしているときに、ふと不安になる。
「ひょっとして、一般人のふりをしたテレパシスト(以下、T)が、自分の思考活動を覗いているのではないか」
あわてて「あー、今日の晩ごはんは何だろう」と、とってつけたようなことを考えても無駄だ。そのとりつくろう様子も、Tには筒抜けなのだから。
そのようなTに対して、一般人が取り得る対抗措置はほとんどないといってもよい。最も単純なのは、「一切の邪念を無くす」というものだが、聖人でもない限り、人が邪念を無くせるのは死んだときとウンコがもれそうなときだけだ。
なんとかしようと思っても、そもそも誰がTなのかを特定することすら難しい。バカなTが相手であれば、「あいつチャックが開いてるぞ」などと思念を送ることで思わず股間に目をやったりするだろうが、普通に考えて、Tは自分がテレパシストであることを隠して生活しているだろうし、そのような単純なひっかけにはのってこないだろう。
Tをひっかけるのが難しいのは、「ひっかけてやろう」という意図すらTに読み取られているからだ。先の例でいえば、「あいつチャックが開いてるぞ」と同時に「これでひっかかるかな?」と考えていることまで、Tには読まれているのである。これでは、Tは警戒して当たり前だ。Tをひっかけるためには、もっと巧妙にする必要があるだろう。
たとえば、事前に協力者(以下、B)を用意しておき、その目的を説明せずに、簡単な指示を出しておく。
「私(以下、A)がサインを出したときは『C子のパンツが見えてる』ということを考えている。そのときは『マジかよ!?』と考えながらC子を見るように」
ここで、Aは「Tをひっかけてやろう」という意図を持っているが、Tにはそれが誰に向けられたものかわからない(Aにも誰がTか分からないため)。そして、Bのアクションを見て、TにBもテレパシストであるという誤解を持たせることができるかもしれない。結果、TはAが自分ではなくBをひっかけようと意図していると判断して警戒を解き、とりあえずC子のパンツをうかがうぐらいはするかもしれない。
極めて回りくどいやり方ではあるが、ここまでやっても「ひっかけられる可能性があるかもしれない」という程度で、公平に見てその可能性は低いといわざるを得ない。失敗すれば、Tはさらに警戒感を強めるだろう。
結局のところ、一般人が確実にTに対抗する方法は無いと思う(が、もっとうまい方法があれば、ぜひ教えていただきたいが、そんなことを真剣に考えてくれる人は、さすがに心配だといわざるを得ない)。それに、Tにとって一般人の妄想など、一般人にとっての週刊誌の体験告白コーナー程度の興味深さしかないだろうと思う。積極的にどうしようもない妄想(学園のマドンナが借金のカタとして我が家のメイドに! えっ、何でもいうこと聞いてくれるの?)を開示する必要はないが、あまり気に病まないほうがいいだろう。
それでも、どうしても気になるというのなら、気にし続ければいい。個室まで、もうすぐだ。
とある病気にかかったのだが、それが激しく神経を刺激するので、痛みに弱い私は悶絶している。その様子を見た人が「そんなに痛いの?」と聞いてくるのだが、「痛み」とは、伝えるのがいかに困難なものであるかを実感した。
思うに、痛みとは、それを経験していない人間には伝えることが不可能なものなのだ。ありきたりなたとえ話で「タンスの角に足指を――」とか「ツメの裏側に針を――」などといってみたり、あるいは、昔のジョークであったように「1cmの鼻毛を1Nの力で引き抜いたときの痛みを1hanageとして――」と痛みの定量化を試みたところで、決して伝わることはない。なぜなら、しょせん他人事だから、わざわざそれを想像してみたりはしないのだ。では、いかにすれば痛みを伝えることができるのか考えてみると、痛みとは「いかに痛くないか」を伝えることによってのみ、伝えることができるのだと思う。
つまりは、こういうことだ。
「痛むの…?」
「ツッ…たいしたことは無い」
ここで目を伏せ、グッと唇をかみ締め、身体を震わせながら言うことで、相手に「うわあ、痛そう」と思わせることができるのだ。自分が大丈夫であることを伝えることで、相手の主体的な想像力がはたらき、いかに痛いかを考えさせることができるのである。
したがって、「どれくらい痛いのか」を伝えるために、あまり痛そうな様子を前面に出してはいけない。もっとも、本当に「痛くなさそうだな」と思われてしまっては元も子もないので、「痛みなどないように自然にふるまいつつ痛そうにする」という、やや複雑な表現力が必要となる。
・ 「ウヒョー! あの娘、ブラの線が透けて見えるぞ」と涙目で叫ぶ
・ 「フロントホック? フロントホック?」と二回尋ねながら、全身を痙攣させる
・ 「オレ、このまえ、はじめてブラの試着に行ったんだけどさあ」と世間話をしながら、のたうちまわる
「どうだろう?」と訪れた友人に問うたところ、友人は少し考えたあと、「うん、あなたの痛さが伝わってくる」。
冬季五輪の女子カーリングを見た多くの人が、もし自分がチームを編成するならと、理想のカルテットについて思案をめぐらせたことだろう。
まず、欠かせないのがチームリーダーであろう。強い精神力と信念を持ち、その姿を見ただけでチームメイトは絶対負けないような気持ちになれる存在である。チームを引っ張る情熱的な言動が目立つのが特徴だ(「あたしのショットは曲げられても、魂までは曲げられないのよ!」)。
そして、リーダーのよき補佐役が、知性派の眼鏡である。氷上のチェスと呼ばれる(らしいが、私は先日はじめて聞いた)カーリングにおいて、ともすれば熱くなりすぎるリーダーを抑え、冷静な判断で試合をコントロールする役割を負っている。
アクセントとしては、やはりムードメーカーであるお調子者の存在が必要だろう。チームの敗色が濃厚になっても、その笑顔でチームを鼓舞し、勇気付けることを忘れない。その明るい笑顔の陰に、ちょっぴりトラウマな過去があったりするのだが、だからこそ、決してつらい顔を見せたりはしない。
4人目は、議論のあるところだが、ここはお色気担当を入れておきたい。できれば天然ボケの要素を持っていることが望ましいだろう。ストーンを滑らせようとして転んでしまい、自分が滑っていったりする。無論、ユニフォームは一人だけミニスカートだ。誰もが「どうしてこんなやつが代表に選ばれたのだ」と思うのだが、彼女が逆転の必殺技ローリング・セクシー・コリオリ・スパークを炸裂させたとき、観客は沈黙する。
かくして、リーダー、眼鏡、お調子者、お色気の4人で結成された理想のチームは、最高のチームワークで世界の頂点を目指して突き進むのである。だが、簡単に勝ち進めるほど勝負の世界は甘くは無い。彼女たちの前に、彼女らの弱点を調べつくして結成された最強のライバルチームが立ちはだかる。
まず、リーダーに対抗すべく選ばれたのが「卑屈」である。情熱的なリーダーにとって、まるで信念など無いかのように無用に自分を貶めて薄笑いを浮かべている奴を見ることは耐え難いことなのだ。リーダーがにらみつけると、顔色をうかがうように下から見上げてくる「卑屈」を相手に、リーダーは本来の力を発揮できない。
眼鏡に対抗するのは、「孤高」である。秀才タイプの眼鏡は、テストの五科目合計ではいつもトップの座を保持している。だが、テストなんてまるで知らぬかのように独特の雰囲気を醸し出しながら校庭を眺めている「孤高」には、微妙なコンプレックスを抱いているのである。負けたくない。そんな対抗意識が眼鏡の歯車を狂わせ、いつものように冷静な判断ができず、ペースを乱してしまう。
そして、お調子者の相手が「ゲラ」だ。こいつは、お調子者がちょっとおどけてみせただけで、突然横から顔を出して手を叩きながら笑い出す。しかも「こいつ、何がおもしろいかわかってないくせに、とりあえず雰囲気を良くするつもりで笑ってんだろうな」と思わせる笑いなのだ。こいつの笑い声を聞くと、かえって不愉快になる。かくして、チームメイトの笑顔は凍りつき、次第に気まずい雰囲気になっていくのだ。
最後に、ある意味では敵にまわすと最もやっかいなタイプと恐れられるお色気に対抗すべく送り込まれたのが「仔犬」だ。お色気は、試合中も仔犬のことが気になって仕方が無い。チラチラと見てしまう。ましてや、ストーンのコース上に仔犬が迷い込んだりしたら、「だめっ」と自ら投げたストーンを抱え込んでしまう。
かくして、最強のライバル「卑屈」「孤高」「ゲラ」「仔犬」を相手に、主役チームは死闘を繰り広げることになる。お互いに持てる力を出し尽くし、一進一退の勝負のすえ、主役チームは勝利を得る。だが、そのために払った代償は小さなものではなかった。チームメイトの危機を身を投げ出して救ったお調子者のことを、彼女たちは決して忘れることはできないだろう。残されたチームメイトは、唇を噛み締めて涙をこらえていた。リーダーが空を見上げると、そこにはお調子者の笑顔がみえた。そして、いつものように「スマイルだぞっ」といっているような気がした。
そんな彼女たちが、青森地区予選2回戦で敗退することを誰が想像しただろうか。
ひとむかし前までは「福袋」といえば「余りものには福がある」という欺瞞とともに、あからさまな売れ残り商品が入っていたものだ。ところが、近年はずいぶんと福袋も進歩して、たいそう豪華にみえる売れ残り商品が入っている。福袋の人気は上昇し、福袋を求めて百貨店に行列をつくったり、奪い合ったりする大衆(豚)は、もはや正月の風物詩である。
福袋の地位向上にともない、人気をあてこんで客寄せをしようと、さまざまな店で福袋が売られるようになった。「どうやって生計を立てているんだろう?」というようなちいさな店が、店先に福袋を並べたりしている。近所にある八百屋兼雑貨屋「なす商店」も、そのひとつだ。
ところで、福袋には開けてみるまで中身がわからないものと、あらかじめ中身がわかるようになっているものがある。中身に自信がある場合は「開けても文句はいえないだろう」という感じで中身はわからないようになっている。一方で、中身を知らせずに販売したら暴動が起きそうな商品を詰め込んだ福袋の場合、はじめから中身に何が入っているか公開されていることが多い。
もちろん、「なす商店」で販売していたのは後者のほうで、並べられた福袋のわきに中に入っている商品が紹介されている。色々なものがゴチャゴチャと詰めこまれている。まずは、洗剤。福袋を買うときのウキウキした気分をぶちこわしてやろうという店主の意気込みを感じる。それから、小さめの掛け時計。時計盤に描かれたミッフィーが可愛い。だが、ミッフィーは青色ではなかったはずだ。そのほか、夏に売れ残った花火や、なぜか特大クリップなどが入っている。この袋のどこに「福」があるのか聞いてみたいような気がする。値段は千円。これがずらりと店先に十袋並べられてあった。隣には「先着十名様のみ!」という張り紙が風にゆれている。まだ一人目は到着していないようだ。
翌日もその店の前を通ったので福袋の数を確認してみた。昨日は「誰がこんな福袋を買うのか」と思ったが、他の客もそう思ったようだ。きちんと十袋残っている。ひとつひとつの商品を見るとあまり購買意欲がわかないが、まとめてあるとなおさらだ。
その翌日も数を確認する。やはり十袋がきちんと並べられてある。なんだかかわいそうな気もする。千円なのだから、誰か血迷って買ってあげればよいのに。お店の人もあまりの売れなさに業を煮やしたのだろう。「先着十名様」に花丸がしてある。
そのまた翌日。やはり十袋が残っている。それを確認して、少しほっとしたような気分になる。少し情がうつったのだろうか。なお、価格が千円から八百円に値下げされていた。ますますダメだ。
そのまたまた翌日。十袋は変わりない。今日も立派に売れ残ったことが、なんだか誇らしい。馬鹿な子ほど可愛いというやつか。値段は八百円のままだが、「福袋を買っていただいたらマヨネーズを割引!」との張り紙がある。店主に、泣くまで反省文を書かせてやりたい。
そのさらに翌日。福袋はきれいに撤去されていた。正月を過ぎたからひっこめたのだろうか。ここのところ、帰りに袋の数を確認するのを楽しみにしていたので、思わず立ち尽くしてしまった。がっかりした。好きな子に好きと言えなくてつい意地悪しているうちに、そのままその女の子が転校してしまったときの、ぼうぜんとする小学生男子の気分だ。
そして今日。福袋売り場には、なぜかデジャヴを感じさせる「お楽しみ袋」が十袋置かれてあった。確かに、楽しみだ。
困ったことが起きた。白雪姫がモアイだったのである。
何かに導かれるように森の奥を訪れた王子は、仮死状態のモアイを見ながら戸惑っていた。
「どうすればいいというのか」
ここは、やはりキスをするべきなのだろうか。もちろん、王子は人を外見で判断するような男ではない。それを補うだけの美点がありさえすれば、物語の落ちは「ふたりは幸せに暮らしました」で結構。だが、相手はモアイなのだ。これは外見とか、そういう問題ではない。そもそも、キスをすれば、モアイは目を覚ますのか。目覚めたモアイがどのような行動を起こすのか。まるで、予想がつかない。もちろん、話の落ちは未定である。何も見なかったふりができればよかったのだが、悪いことに、そこには七人の小人という目撃者がいた。小人たちは、王子がいったいどのような行動をとるのか、七つの顔に興味深そうな表情を浮かべてうかがっている。
「どうすればいいというのか」
もし、妹に「お兄さまのことが好き」といわれたら、どうすればいいのか。からかうんじゃないよ、シャルロット。本気ですわ…、もうこの想いは止められませんの。バカ、オレたちは兄妹じゃないか。でも…、お兄さまがやさしすぎるのがいけないのです。そんな妄想で目の前の問題から目を背けようとする王子だったが、そこにはやはりモアイがいた。
「いっそ、消すか」
そんな黒いことを考えながら、王子は小人たちを見た。目撃者さえ消してしまえば、自分がモアイを見捨てていったことが世間に知られることはない。そうして、どこかに眠っているドジな眼鏡っ娘の白雪姫と幸せに暮らせるかもしれない。だが、そんなに上手くいくものなのか。
王子が小人たちを抹殺して立ち去ったあと、カッと目を見開くモアイ。その大きな身体を地面にめりこませながら、ゴリゴリと動き出す。ちょうどその日はお城の舞踏会。突然、王城の門前に現れたモアイに門衛が告げる。
「ど、どちらにおいででしょうか。い、石の招待席はありませんが」
慇懃無礼に追い払おうとするのだが、声の震えは隠せない。衛兵がモアイを取り囲むが、モアイの目から照射された赤いレーザーが、彼らをなぎ払う。そのままレーザーは城壁を貫き、天井や壁が崩れ出す。危ない、シャルロット! 倒れてきた柱にシャルロットのドレス(ミニスカート)が挟まれそうだ。とっさにシャルロットの手を引っ張り、胸に抱きとめる。バカ、気をつけろ。シャルロットの目をまっすぐに見つめて叱り付けると、シャルロットは耳まで上気させながらつぶやいた。お兄さま、もう放さないで…。そんな妄想で王族としての自覚を無くしかける王子だったが、焦土と化した王城に聳え立つモアイがふと脳裏に浮かび、背筋を寒くした。
「……」
とんでもない罠にはまってしまったような気持ちで、王子は覚悟を決めた。行くも地獄、戻るも地獄。なら、王子としての役目を果たそう。覚悟を決めた王子がモアイにキスをすると、意外と普通にモアイは目を開けた。王子に気付いたモアイは、頬を染めながら王子に告げた。
「いい年をして恥ずかしいのですが、頬骨が小さいのです。でも、いつか大人のモアイとなって戻ってきます」
そう言い残して、鼻から炎を噴射して大空に飛び立っていくモアイ。何がなんだかわからないまま、呆然とそれを見送る王子。モアイの生態をよく知らない王子には、ただ祈ることしかできない。
ああ、せめて、来年もいい年でありますように。
部屋でひとりになった人間は、何か恥ずかしいことをする。この「恥ずかしい」のニュアンスをうまく伝えるのは難しいが、「顔から火が出るほど恥ずかしい」と「うれし恥ずかし」を足して「恥ずかしいから電気を消して…」で割ったような状態であるといえば、誰にでも理解してもらえるだろう。
もっとも、それは人類なら誰でもやっていることなのだから、そう恥ずかしがらずともよいのかもしれない。たとえば、鼻歌を歌っているうちに気分が高揚してきて「カリスマロックンローラーごっこ」をすることぐらい、誰にだってあるだろう。気分が落ち込んでいるときに、鏡に向かって「元気出せよ、オレ」と最高の笑顔でいうことだってあるかもしれない。「バカ、そんなにくっつくなよ」と虚空に向かって語り掛けることなどしょっちゅうだ。誰だって、我に返ると赤面してしまうようなことをしたことがあるはずだ。私は無いが。
そのような行動を取ってしまったあと、ほとんどの人はすぐに我に返る(まれにいつもそんな状態の人もいる)。そして、あたりを見まわして、誰にも見られなかったことを確認する。用心深い人は隠しカメラや盗聴器のチェックもする。さらに用心深い人は国外へ逃亡する。誰にも見られていなかったことを確認して、ようやく安心する。しかし、警戒が足りず、気づかぬ間に誰かに見られていることもある。
北嶋という友人がいる。北嶋はちょいと懐かしさを感じるような古いアパートに住んでいて、私が彼を訪ねたとき通路に面した窓が数センチほど開いていた。呼び鈴を鳴らす前に、ふと部屋の様子を覗きこむと、北嶋は窓に背を向けて「マフィア(?)につかまり、許しを請うが、結局銃に撃たれてしまうごっこ」をしていた。
北嶋は「助けて」という様子で顔の前でふるえる手をかざした。見えない相手に向かって、必死の命乞いをしている。声は出さず、身ぶりでの熱演だ。しかし、相手は冷徹なまなざしで北嶋を見つめたまま、銃弾を発射した(ようだ)。撃たれた北嶋は、腹を押さえてよろめく。信じられない、という顔で架空の相手を眺めた後、ひざをつき、うつぶせに倒れこんだ。指を二三度ぴくりと動かしたあと、彼はこときれた。
見てしまった。「部屋でひとりになった人間は、何か恥ずかしいことをする」。見たあと、こっちが猛烈に恥ずかしくなってしまった。そのまま彼に呼びかけるのがためらわれた私は、一旦アパートを離れ、五分ほど歩き回ってから呼び鈴を押した。北嶋は、何事もなかったように出迎えてくれた。つい先ほど銃弾に撃たれたことなど感じさせない笑顔だった。そのとき、私がどうしても言えなかった言葉がある。
「大丈夫?」
「つまらないものですが…」
それは甘えだ。自分の持ってきたものを卑下することで、相手を喜ばせようとする自信が足りない言い訳しているだけだ。本当に相手を喜ばせる自信があるのなら、つまらないなど口をつくはずがない。また、そんなことをいわれて嬉しいはずがあろうか。
だが、謙遜の美徳を忘れてはいけない。たとえ相手をどんなに喜ばせる自信があろうとも、「すばらしいものですが…」とは口に出せないものだ。誰がそんな偉そうな贈り物を贈られたいと思うのだ。
つまりは、新しい常套句が必要なのである。相手に期待を抱かせつつ、決して過剰に自信を覗かせないようなオブラートに包んだいいまわしとともに、手土産は渡したいものだ。そこで、こんないいまわしはどうか。
「やわらかいものですが…」
過剰に自信をのぞかせるわけでもなく、しかし相手は期待を抱かずにはいられない。「やわらかいもの…。ふつうに考えれば和菓子とか…だけど、あえてやわらかいというからにはもっと…ふわふわ…ぷにぷに…ぷるぷるーん…」と、もはや相手のハートをわしづかみにして離さない。うるんだ目をした相手のななめ上にはポワンポワン(妄想中に出る雲のような物体)が浮かんでいる。
だが、この言い回しに欠点があるとするならば、それはやわらかくなければならないということである。つまり、せっけんや木彫りの熊など、手土産としてはよくあるパターンが使えないのであって、もう少し汎用性のある表現が望まれる。そこで、次のいいまわしだ。
「国家間の憎しみを感じさせないものですが…」
壮大な自信を覗かせつつ、実はたいしたことがないものでも一向に構わないといういいまわしである。相手は「国家間の憎しみを感じさせるもの」がどんなものかすらわからないのであって、しかしこの言葉が持つ重みが相手にそんなことすら考えさせない。気分は大統領閣下である。
だが、冷静に考えてみて、やはり大げさな表現であることは否めない。相手に過剰な期待を抱かせてしまう危険がある。誰が、本当は中身がバナナだと想像するだろうか。やはり、手土産にはそれ相応の表現というものがあり、たしかに自分の手土産に自信を見せるのは悪いことではないが、相手の期待と実際の中身のギャップが生じないように気をつけたいものだ。そこで考えられるのはどんなセリフか。
「すごくよかったですが…」
使用済みか…。
誰しも「一度は言ってみたいセリフ」があるが、役者でもないかぎり、そんなセリフをいう機会には恵まれない。だが、それでよいはずがない。いいたいセリフひとついえないようでは、ブラジャーをはずし忘れたまま外出したときのように、なにか胸にひっかかりを感じながら日々を過ごすことになる。余計なストレスを感じないためにも、セリフを口にする機会は逃さずにいたいものだ。
たとえば、一度は言ってみたいセリフとして、こんなものがある。
「これ以上、お前の好きにはさせない!」
想定される状況としては、自分より強い相手に立ち向かうようなときであろうか。だが、いざ日常でこのセリフをいおうとしても、いう機会に恵まれない。それはそうだ。このセリフをいうには、まず自分が「好きにされる」必要があるが、そんな支配欲に満ちた知人はなかなか見つからないのである。
ではどうすればよいのか。ここで代替案として提案したいのがコタツである。あの、心も身体も思うがままに蹂躙する悪魔の装置。おシャレな雑誌のような生活に憧れる田舎の女子中学生の夢を打ち砕く存在。そいつにいってやるのだ。
「これ以上、お前の好きにはさせない!」
そうして、コタツから颯爽と立ち上がる。強い意志を浮かべた眼でコタツをにらみつける。そのまぶしい姿は、思わず皆が目をそらすほどだ。
他に、こんなセリフも言ってみたい。
「ここは俺にまかせて、先に行けっ!」
おそらく、状況は敵の幹部にもう少しでたどりつきそうなとき。我々には果たさねばならない任務がある。こんなところで足止めをくらうわけにはいかない。そう、ここで誰かが犠牲になる必要があるのだ。そこで上記のセリフを言い放つのである。「しかし…」とためらう仲間に向かって、「きっと、また会おうぜ」とかいいながら、敵の渦中に飛び込んでいくのだ。そんなかっこいいセリフをいってみたい。
だが、それには何が必要か考えるのが面倒なくらいの準備が必要であり、そもそも、どうして私がそんな危険なシチュエーションに会わなければならないのか。そういうわけで、もっと手軽にいえるシチュエーションはないかと考えてみるに、こんなセリフをいってもおかしくないのは、屁だ。
それも、ただの屁ではない。大を我慢しているときの屁だ。とてもおなかが痛くて、もう少しで漏れそうだけど、たぶん、いま出口にいるのは屁。慎重にコントロールすれば、大を出さずに屁だけを出して、少しおなかが楽になる。だが、これは賭けだ。括約筋を緩めすぎると、屁だけではなく、混沌が生まれる。まさに生と死の狭間。私は全神経を括約筋に集中させ、言い放つ。
「ここは俺にまかせて、先に行けっ!」
そうして、見事に気体のみを出すことに成功する。この達成感。自らが閉じ込められたままであることを知っていても、それでも友を脱出させるためなら、どんな危地をも厭わない。これが人間の証というものか。
見事、友の脱出に成功させた私は下腹に意識を集中させる。成功した以上、ただ犬死するわけにはいかない。きっと安全圏で脱出しようと、私はトイレの個室に急ぐ。だが、友は去り、敵の攻撃は苛烈である。無事、脱出できるのか。
あと数歩のところで、どこからともなく声が聞こえてくる。
「約束どおり、戻って来たぜ…」
煙が目にしみただけだ。
たとえばアーモンドチョコなどが代表的なものでしょうが、たいていの人は、口にいれてチョコレートが溶けるのを待ったりせず、チョコとアーモンドをともに噛み砕いたりもせず、チョコレートが乾いているうちに歯をつかってチョコとアーモンドを分解してしまう。もちろん、ポッキーはチョコレートのコーティングを歯でこそいでしまうし、きのこの山はえの部分がうまく抜けて、チョコレートにつるんとした穴があくと、なんだかうれしい。
このように、たいていの人は、チョコレートとそれ以外がくっついたお菓子を食べるときに、両者を分解すると思います。ところが、このような行為は極めて一般的なのにもかかわらず、その行為を何と呼ぶべきなのか、それを適切に指し示す名称がありません。しからば、このような行為に私が適切な名称を与えようと思いまして、どうして私がそのようなことを考える必要があるのかは自分でもわかりませんが、ときどき自分はバカなんじゃないかと思うことがあります。
では、どのような名称がよいかと考えますと、その名称を聞けば誰でも上記の行為を思い浮かべることができるような、そんな名称が好ましい。そこで考えましたところ、よほどの性倒錯者でもないかぎり、たいていの人はチョコレートを分離するときに女性の衣服を脱がすことを想像していますから、そのような名称が好ましいのではないかと思いました。たいていの人は、きのこの山は故郷の幼馴染だとか、ポッキーはバイト先の女学生だとか、エリーゼはいつも公園で犬の散歩をしている白いワンピースのお嬢さんだとか、勝手なシチュエーションを想像しながらチョコレート部分を脱がしていますよね。アポロチョコは色違いのチョコをきれいに二つに分けるという変り種なので、ちょっとした異国情緒を楽しんだり。それから、変り種といえば忘れてはいけないのがあのお菓子。
そう、ルマンドです。
あのただよう気品は、やはり学園のマドンナといったところでしょうか。きのこの山などにはみられない複雑なコーティングは、あたかも乙女心。ルマンドに挑むときは、ちょっぴり気取った顔をして、「君の生まれたままの姿がみたいんだ……」なんてつぶやきながらやさしく表層のチョコレートを脱がします、たいていの人は。ところが、チョコレートをはがすと、その下には薄いパイ生地のような層があり、それをはがすとまた新しい層が。夢中になっていると、いつのまにか消えてしまうのは、女性の神秘というやつでしょうか。
さて、少し話がそれましたけど、このような行為をなんと呼ぶべきかと考えていたのですが、ああ、そういえば、こういうのは「妄想」と呼ぶのでした。
そもそも、私は人を不愉快にさせるのが嫌いだ。そして、バレンタインデーにチョコレートを大量に受け取るような男子を見るのは、とても不愉快なことである。したがって、私は他の男子を不愉快にさせないために、チョコレートを受け取らないことを決意している。不思議なのは、誰にも口外していない私の密かな決意を、なぜ女子があらかじめ知っているのかということだ。
そんなわけで、今ではバレンタインデーよりも節分にそわそわできるほど徳の高い人物になった私だが、別にバレンタインデー自体を否定しているわけではない。私も徳の低かったころは、告白だとかデートだとか、そんなチャラチャラしたことを気にしていたものだ。
「バレンタインデーは好きな人に告白する日」
誰が考えたのか知らないが、すばらしいアイデアではないか。ちょっぴり内気だったり、素直に自分の気持ちを伝えられない、そんな少女が年に一度勇気を出せる日。それがバレンタインデーである。
「バレンタインデーは好きな人を告発する日」
こんな日には誰も幸せになれない。朝からとてもイヤな気分で過ごさなければならない。ああ、バレンタインデーが告白の日でよかったことよ。
さて、こういうことを書くと自慢話になるのかもしれないが、私も徳が低かったころは、バレンタインデーともなればよくターゲットにされたものだ。
放課後の教室。夕陽に黄昏る私。やがて、教室の外から数人の女子の押し殺した声が聞こえてくる。ねえ、チャンスだよ。いっちゃえ、ほら。友人たちに背中を押され、教室に一人の少女が飛び込んでくる。私がそちらを目をやると、少女は手を背中に回し、ぱっとうつむいた。少女の顔が赤く染まっているのは夕日のせいか、鬱血性赤面症のせいか。しばらくの沈黙のあと、意を決したように少女は私の顔を見つめ、言葉を発する。あっ、あのっ……。
「私、あなたの病名を知っているんです」
なぜ、そんな重い告白を。
洗濯物を干し忘れて、数日ほど洗濯機に放置していたら、なにやら変なニオイを発している。干せば消えるだろうと思って干してみたが、やはりニオイは残っている。仕方がないので洗いなおすことにしたが、洗う前にあらためてよく嗅いでみると、変なニオイには違いないのだが、どこか懐かしさを感じるニオイである。タオルなどで顔を覆ってスンスンと臭いを嗅いでいると、やけに安らいだ気持ちになる。さて、このニオイは何のニオイだったかと考えているうちに、はたと思い当たった。
「これは雑巾のニオイですか?」
(Is this a smell of the dustcloth?)
「はい、これは雑巾のニオイです」
(Yes, this is a smell of the dustcloth.)
雑巾のニオイに郷愁を感じている自分に気付き、暗澹たる気持ちになった。すると、私の故郷はバケツか。
街、家、人にはそれぞれ特有のニオイがある。友人の家にいくと友人の家のニオイがしていたし、嗅ぎなれたニオイで自分の街に帰ってきたことを実感したりもする。こればかりは真似することができない。たとえば友人とニセ友人がいたとして、外見や質感はそっくりだとしても、ニオイだけはどこか違う。本物のほうが、靴下がちょっとクサイとか、必ずそういう違いがあると思う。
それだけに、ニオイは他人との相性を探る上で重要である。どこかニオイにしっくりこないものがあると、それだけで友情や愛情の障壁となる。嗅覚など、五感のなかで最もとらえどころのないものなのに、しっかり人間の原始的な部分と結びついているようだ。
返して言えば、ニオイさえしっくりとくるのなら、他の部分は、たいした問題じゃない。たとえ見た目や声や味やさわり心地に難があろうとも、その人のニオイが自分にぴたりとはまれば、その人とは一生の友人か、あるいは一生の恋人かになれるかもしれない。さしずめ、私の一生の恋人は雑巾の香りがする人だろう。
どうか、一生、出会いませんよう。
いつもさわやかな私だが、寝起きは機嫌が悪い。もし、「世界寝起きが悪い選手権」があれば、寝起きだったら出場すらしないだろう。
寝起きは悪いよりも良いほうがよい。できることなら、私も起きた瞬間から好青年でありたいと思っている。朝、窓を開けて「おはよう、小鳥さん」と快活に微笑み、「行くぞ! ジョン」と飼い犬とともにジョギングに駆け出すような青年になりたいものだと思う。ところが実際はといえば、起きると「おはよう、小人さん」と幻覚に悩まされ、「行くぞ! ジョン」と犬のようにいたぶられる毎日なのだ。
なぜ寝起きというものは、人によって良かったり悪かったりするのか。もしかしたら、寝起きが悪いというのは、目覚めると良くないことが起こることを本能が察知して起こる現象なのかもしれない。もし、いつでも快晴で、角を曲がるたびに私に恋心を抱いている少女がぶつかってきて、街を歩けば青い鳥が肩にのっかってくるような毎日を送っているのであれば、とても寝起きが悪くなるとは考えられない。毎日が楽しくて、もちろん快活に起きることができるだろう。
もっとも、寝起きが悪いからといって、私の日常にそれほど悪いことが起こっているのかといえば、そういうわけでもないような気もする。確かに上述したようなことはないが、まんざら悪いことばかりというわけでもない。とすると、ひょっとして「私は寝起きが悪い」という認識のほうが間違っていたのだろうか。自分の寝起きは悪いと思っていたけれど、本当はそれほどでもないのだろうか。実は、(薄々気付いていたことだが)朝からさわやかな好青年なのだろうか。
さて、どちらだろう。私は毎日が幸せだけど朝は非さわやかなのか、たいして幸せなことはないけれど朝からさわやかなのか。こういうことは自分ではわかりにくいもので、他人に聞いてみた。
「いつでもさわやかじゃないよ」
そうか!